2002/1 満月 - Moonsault Space
![]() いよいよ年があけましたね。昨日は東京では嵐が吹き荒れましたが、今日は一転して穏やかな快晴。気持ちよく星や月を見上げながら、このお手紙を書いています。この星空を見ている限りには、あの超大国の指導者が「今年は戦争の年になる」などというぶっそうなことをぬけぬけといったことが嘘のように思えてきます。本当に、いったいこの惑星はどうなってしまったのでしょうね。あるいはどこへと向かおうとしているのでしょうか。 長い長い先生の前回のお手紙を読ませていただいて、胸が熱くなるのを感じながらあらためて思ったことは、僕も、実は「グノーシス主義」にはひそかに共感している一人だということなのです。ユングの心理学も占星術も永遠の少年の象徴論も、『女性原理』への憧れとそれへの隠された反発も、すべては僕のなかにある「グノーシス」的なものと共鳴しているがゆえに、僕がどうしても惹かれてやむことがないのでしょう。いや、これは僕一人の問題ではなく、あるいは集合的な問題なのかもしれません。 宗教学者として現代人にとっての宗教のありようをバランスのとれた視点で観察・記述されていることで知られる島薗進先生が、本来はるか古代の思想であるグノーシスについての論文を矢継ぎ早に本を編集されているのも、間違いなくグノーシスのなかに現代的な問題が含まれているからでしょう。以前、オウム事件が起こったとき、ダイヤモンド社から出たアンソロジー『あれは何だったのか』という本のなかで、「リトル・グノーシスたちへ」といったようなタイトルの、短いエッセイを書いたことがあります。オウムに入信した人たちの、危険なまでに純粋な熱狂を、グノーシス主義とどこかで重ね合わせて語ったものでした。 やがて、ユング心理学の専門家であり、また、ハンス・ヨナス著の『グノーシスの宗教』の翻訳者である入江良平先生が、酒鬼薔薇聖斗の作文を、グノーシスのコスモロジー(いや、、グノーシス主義に特徴的なこの世への強烈な否定性をかんがみるなら、アンチ・コスモロジーとでもいうべきでしょうか)と比較されていたのを見て、なるほどと思いました。(『世紀末精神世界』WAVE出版)そうなのです。おそらく、グノーシス主義をアレクサンダー大王の東征に端を発する、ギリシアとユダヤのブレンドが生み出した、特定の時代と空間にだけ出現した宗教現象だととらえるのは間違いで、時代を通してときどき、「あるタイプの人間」のなかに出現してくる傾向だと考えるヨナスは、正しかったのでしょう。それは「グノーシス的なるもの」といってもいいかもしれません。そのグノーシス的なるものとは、この世界の汚辱にたいする強烈な反発、あるいはあきらめ、そして、その裏側にある、やはり純粋で強い希望と救済への願望なのではないでしょうか。くしくも、鎌田先生は、プラトンとグノーシスのエッジを歩いておられるとおっしゃいましたが、僕も全く同感です。今、先生や、あるいは僕が抱いている強い危機意識の背景には、もしかしたら、神話的でアーキタイパルな衝動がうごめいているのではないかという気すらしてくるのです。 そんなことを考えているときに、うってつけの本が翻訳されて出ました。ユーリー・ストヤノフ著『ヨーロッパ 異端の源流』三浦清美訳(平凡社)です。さすがに平凡社というのはいい本を紹介してくれるなあと思ったのですが、この本をぱらぱらとめくって、大きな衝撃を受けました。原題は「ヨーロッパの隠された伝統」なのですが、古代のイランから説き起こされるこの本によっていかに僕の「西洋」の「オカルト」の見方が西ヨーロッパ、あるいはラテン世界中心に縛られていたかが暴かれました。そして、ヨナスのいうとおり、二元論的な世界観がヨーロッパ、アジア、そしてときに仏教的世界にまで衝撃を与えながらひとつの「伝統」(とその変奏曲)となってうねっていったかを、大胆に語っているこの本は、僕たちがいかに二元論的世界のもつ迫力に、危険なまでにとりこまれてしまいがちかということを、歴史をもって検証しているようにさえ映るのでした。 よくいわれることですが、西洋の神秘学は--ルネサンスのオカルトから薔薇十字主義やユングにいたるまで--「総合」ないし「統合」「結合」にその『秘儀』があります。それと同じ『秘儀』は、カリフォルニアで起こってきたようなニューエイジサイエンスのなかにすら、『全体性の回復』などという別な、しかしわかりやすい衣装で現れました。へそ曲がりな僕は、それを「マンダラへのフェテイシズム」なんて、かなり品のない言葉で揶揄したりすることがあって顰蹙を買っているのですが(そう、それは、先生のようにワインの誘惑に勝てない僕の場合には、決まって酔ったときです)、その背景には、誰しもが口にするのを長らくはばかっていた、グノーシス的な二元論の強烈な生命力への恐れがあったのではないでしょうか。 もちろん、二元論だからといってすぐにグノーシス主義だというわけにはいきません。二元論にもさまざまなタイプがあることくらいは僕にもわかっているつもりです。プラトンの思想では「イデア」にたいして現象界、あるいは魂と肉体の関係には、この世界そのもの、この宇宙そのものへの絶対的な否定性は含まれていません。R.BroekとW.Hanegraaffの編集でニューヨーク大学出版から98年に出版されたアンソロジー『グノーシスとヘルメテイシズム』には、古代から現代までのグノーシス主義とヘルメス思想をめぐるさまざまな論文が含まれていますが、Broekが書いた『古代におけるグノーシス主義とヘルメス主義』には、グノーシス主義とヘルメス主義が酷似した宇宙創生神話を用いながら、前者が徹底した宇宙の否定に傾くのにたいして後者はそこまで徹底せずにいた、ということを手際よくまとめています。 しかし、そうした「違い」は大きいようでいて小さく、また小さいようで大きい。まさしく「エッジ」であるというような気がするのです。グノーシス的なる、この世界への否定的な感覚、あるいは疎外の感覚そのものを、僕は否定する気はありません。青臭いといわれようとも、それは、この世の中の汚辱やら矛盾やら不条理やら不幸やらにたいする、鋭敏な感受性の表れだと思うからです。それは透徹したニヒリズムを生み出したり、この世界、この宇宙そのものに自分が帰属していないという気持ちを生み出すのでしょう。と同時に、それはエッジを越えると、生きることそのものの否定につながったり、前にもいったことですが「魂を守るために死ぬ」などという自殺的な行為にまでつながる、爆発的なパッションとなってしまうのでしょう。あるいは、全くの無気力というシェルターのなかにひきこもる。長い長い、二元論の神話を生きてきた僕たちの歴史のなかから、そろそろ僕達は何かを学ぶべきときにきているのかもしれません。 すこし、おおげさなことを、占星術家の妄説として言わせてください。『水瓶座の時代』という観念は、実は占星術のなかではきわめて新しい概念であり、春分点が移動することで時代精神が変わるなどという発想は19世紀以前にはなかったということがわかっています。いや、ミトラ教の発生は、この占星術論的な発想から生まれた、ということを示唆している学者もいますが、これはいまだ仮説の域を出ません。少なくとも「西洋」占星術のなかにはこうした考えはありませんでした。しかし、新しく、占星術の伝統のなかにこうした見方が加わるとしたら、その水瓶は二元論的な発想の象徴である「二匹の魚」(魚座)をいっしょに泳がせることができる『水瓶』という器を、一人一人が持つことができるようにならねばならない、というメッセージのように思えるのです。 宗教の歴史をみると、それが戦いの歴史であったことがすぐにわかります。歴史絵巻としては、ストヤノフがドラマテイックに二元論の宗教の伝播と発展、盛衰を記述している、先の本などは、最高にスリリングです。しかし、それは本というバーチュアルな「絵巻」として見るから楽しめるのであって、実際にはそこで血が流され、人が殺されてきたのですよね。とりわけ、現代の僕達は、50年前のトールキンが予感したような、世界をも破壊しつくすことができる「力の指輪」を手にしてしまっています。もう後戻りはできないのですよね。 いつでも、ずっと僕のなかで、あるいは世界のどこかで響いている、グノーシス的な暗い音楽。そして、それでも生きてゆこう、生命への憧れを賛美する明るい力。「統合」とはいいますまい。しかし、それをなんとか調律したり、ときに宇宙の冗談だとして、笑い飛ばしてゆけるような、そんな「器」をもつことが必要になってきているのだと思うのです。 なんだか、占星術家の悪い癖で話がメタファーの連続になってしまいました。できの悪い占星術家は、外れる事を恐れて「どうとでもとれる」予言をするのが得意なものです。もちろん、僕もその一人。しかし、具体的な解決法を提示するのは、占星術家の役目ではありません。もしそんなことをすれば、相手が社会であれ個人であれ、危険な先導者となったり、偽予言者へと転落してゆくことにもなりかねませんからね。こうしてつらつらとお話しているようなことが、だれかのイマジネーションを動かして、そして、何か気もちを代弁していたり、あるいは新しいインサイトをもたらすことができれば、僕としては満足です。少なくともいまのところは。それでは。また近いうちにお目にかかれることを楽しみにしています。 明日のために。 2002年1月22日鏡リュウジ拝 鏡リュウジ様 鏡さん、年改まって初めてレターありがとうございます。鏡さんのレターの中に、グノーシスへの共感とスタンスが語られていて、とても興味深く思いました。このところ、「私的」にはちょっとしたグノーシス主義ブームです。その火付け役は、高橋義人さんと島薗進さんたちが編集した『グノーシス 異端と現代』(岩波書店)ですね、やはり。その後わたしは、『ナグ・ハマディ文書』(岩波書店)を買い求めて読み出し、あまりに面白くて、さらに、クルト・ルドルフの『グノーシス』(岩波書店)を手に入れて斜め読みしているうちに、今日、東京大学教授の宮本久雄さんから宮本久雄・山本巍・大貫隆共著『聖書の言語を超えて』(東京大学出版会)という本を送って来てくれたのですが、その副題がなんと「ソクラテス・イエス・グノーシス」というものでした。しかも宮本さんの長大な論考「イエスの譬え話」の中に、〈グノーシス文書『トマス行伝』「真珠の歌」〉という一節があって、これがグノーシス主義の神話についての考察なのです。そのところを興味深いので引用してみます。 「グノーシス主義は、後一世紀ころにローマ帝国の辺境に生じ、後にプラトン主義やキリスト教の思想概念を吸収して、新約聖書や教父と対立していった宗教思潮であり、その特徴は大略、以下のとおりである。第一に、倫理的な善悪二元論。神性・精神(善)と物質・地上界・肉体(悪)の二元が、世界および人間を舞台に闘争している。神性は物質界に対し非受動であるとされる。第二に、人間の魂(本性)の神性説。人間が自己の神性の覚知(グノーシス)を忘れたので地上界を迷っているとされる。したがって第三に、グノーシス的救済論。人間の救済は、肉体・地上界から浄化(カタルシス)を通じて離脱し、自己の神性を覚知する点にあるとされる。第四に、これらの帰結として、神の子・ロゴス(言)が人間になったという受肉論や受難死を認めず、神性そのものは受肉・受難の影響をうけないとする(仮現説)。こうしてグノーシス主義は、一般に、歴史や人間の生に悲観的である」 これが、宮本さんのグノーシス主義についての概説的なまとめです。問題は、そうした思想の概要と対応する物語世界です。「真珠の歌」のあらすじの引用を続けます。「ある王(神性)の宮殿に、王子が至福な状態で暮らしていた(魂の神的状態のテーマ)。彼は、遠い異郷エジプトに住む龍のそばにある真珠(神性の断片)を奪い返す使命をおびて、父のもとから派遣された。メイシャンやバベルなどの地を通り、エジプトに下った(仮現的受肉)。エジプトふうの生活になじみ、そのこ食物になれたとき、食物の重さに眠りこみ、王子の身分や使命を忘れはてた(神性忘却のテーマ)。そこで王が手紙を送り(啓示)、それを読んだ王子は自己知(グノーシス)と使命を想起し、無事に龍から真珠を奪い返し、帰郷する。エジプトふうの着物や食物を捨て、かつて旅出の際に脱ぎすてておいた光輝く王的衣が示され、そこに本来的自己・神性を見出し、グノーシスを観察する。こうして王子は真珠を携え王宮の父王のもとに迎えられる(魂と神性との再合一)。この物語も、放蕩息子の譬え話同様に、『見失われた王子-自己の再発見-父子再会の至福』というシェーマをもつ。けれども、そこには明らかに先述のグノーシス的特徴が見出されよう。すなわち、魂の神的王子の身分、エジプト世界への降下(仮現)、昏睡(神性の忘却)、手紙による神的啓示、目覚め(グノーシス)、真珠の奪還と帰郷(神性との再合一)などである」 このパターンは、わたしたちにもなじみ深いものですね。一種の失楽園物語(楽園追放物語)と楽園帰還物語の結合です。魂の高貴さを忘却してしまっているという、ある種のシンデレラ・ストーリーなのです。ところで、オウム事件のことについてまとめた『あれは何だったのか』という本に、鏡さんは「リトル・グノーシスたちへ」という文章を寄せていたのですね。実は、1995年6月にダイヤモンド社から出たその本にわたしも「修行と神秘体験とイニシエーションの闇――修行者の君に問う」というエッセイを書いていたのです。その文章は、その後同年10月に緊急出版した『宗教と霊性』(角川選書)に収めました。まさか、同じ本によく似た内容の文章を載せていたなんて。 その鏡さんのエッセイのことはすっかり忘れていました。読み返してみると、まさに今日的なテーマが浮かび上がってくると言えます。鏡さんは、「エリアという名前に覚えがある方、アトランティスの生まれ変わりの方、お手紙下さい」と言った手紙をオカルト雑誌の文通欄に書くような若者を「リトル・グノーシス」と呼び、そこには、「現世は愚鈍な神の造った偽物の宇宙であり、今自分はこの汚辱に満ちた世に埋没しているが、本来は真の神に由来する、光の世界に出自をもつ」という信念が共通して見られると書きましたね。オウムに入信していった若者たちも、前世探しをする若者も同じ「グノーシス」的な世界感覚と実存感を持っているとしていますね。 そして、重要なのは、鏡さんが、大切なのは、あちらとこちら、あの世とこの世、現実とオカルト世界を行き来する「強靭なバランス感覚」であると指摘している点です。鏡さんは書いています。「今後、情報化が進めば、従来の意味での『現実』感はますます希薄になるだろう。そのときに必要なのは、情報やヴィジョン、ファンタジー、世界観そのものを楽しみ、利用しつつ、一方ではそうしたフィクションが作り上げるイマジナルな世界があくまでもイマジナルなものであることを見失わないだけの強靭なバランス感覚なのだ」と。「カルマ、前世、無意識、元型、宇宙意識・・・それらは確かにある」、しかし、「もし、意識の進化などというものがあるのだとすれば、こういう『ある』とか『ない』の境界をうまくとらえ、行き来する心理的な幅とそれを使いこなすことによって閉塞しがちな現実に意味を持たせ、より広げてゆくメンタルな馬力だと僕は信じる」と。 そして最後に、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の最期に出てくるセリフを引用してエッセイを閉じています。そのセリフは次のようなものです。「ファンタージェンに絶対行けない人間もいる。行けるけれど、そのまま帰ってこれない人間もいる。それから、ファンタージェンに行って、また戻ってくる人間もいるんだな。そしてそういう人間が世界を健やかにするんだ」。 この言葉は、いまのわたしにはリアルすぎるほどリアルです。というのも、昨年末の満月の夜、私は交通事故に遭って大宮日赤に運ばれたのですが、同じ日に、巫女的な資質と行動力を持った知り合いの女性が34歳という若さで心臓麻痺で亡くなったことを1月7日になって知ったからです。彼女は沖縄で神事をしてきて、帰ってきた日の夜に心臓麻痺で倒れ、急逝したのです。沖縄では、彼女はアメノウズメの舞を踊るのだと張り切っていました。沖縄で何があったのか、詳しいことはわかりませんが、ともかく、わたしの感じでは、彼女は行ったきり、帰ってこなかったのです。「ニライカナイ」か「常世の国」か「竜宮城」かわかりませんが、ともかく行きっぱなしになってしまったのです。彼女の死の知らせを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、亡くなった日が満月の日だったこともありますが、「かぐや姫」のことです。かぐや姫のように月の世界、すなわち死の世界・魂の世界に往ってしまったと感じてしまいました。そして、その夜、わたしも同じように、あちらへ往ってしまいそうになったのでした。わたしをこちら側につなぎとめたのは、こちら側でまだ果たさねばならない役割が残っていたからでしょうか。それとも単なる偶然でしょうか。「月は何でも知っている」から月に聞いてみましょうか。 エンデいう「世界を健やかにする」という言葉、宮沢賢治の言葉を使っていえば、「世界全体が幸せにならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉に引き戻されたのでしょうか。賢治の言い方は、エンデの「健やかさ」というか穏やかさに較べてとても「極端」ですね。まさに、日本のグノーシス主義者の面目躍如たるものがありますね。賢治は典型的なグノーシス主義者です。彼の「修羅」意識と「菩薩」への希求は、まさにグノーシス的な主題そのものです。賢治は日本の「ビッグ・グノーシス」であり、「プロト・グノーシスト」なのです。 同じ本の中で、わたしは「修行者」が必ず直面するであろう「魔」ないし「魔境」について書きました。そして、この「魔」ないし「魔境」を突破することなしに解放も覚醒もないのだと注意を喚起し、三つの根本的な構えを指摘しました。第一に、修行をどのようにも特権化してはならないということ。第二に、「魔」を解体突破する智慧と勇気を身につけること。第三に、修行の過ちと暴力性に気づいた時、原点に立ち返ってその過ちと暴力性の原因を究明してその根を断ち切ること。この三つを常に保ちつづけること、それがどのような「修行者」にも必要なのだと主張したのです。 わたしにとって、鏡さんの言う「バランス感覚」はこの三つの態度となって現れます。過剰に「修行」に意味づけも価値も見出さないこと。その過程で生起する現象に淡々と対面し「通過」してゆくこと、そして、いつでもそれを止めて「脱け出る」ことができること。これが振り子を元に戻す力であると考えていたのです。基本的には今も同じです。オウム事件から丸7年が経とうとしています。その間に、わたしたちは「リトル・グノーシス」にどのような「バランス感覚」を伝え共有することができたでしょうか。ゴータマ・ブッダの言う「中道」、それは本当に「修行者」にとっては忘れてはならない正道であると思います。かく言うわたしは、いつも「中道」の大切さを思いながら、それを実践できず、「極道」に突っ走ってしまう悪い傾向を持っています。そんなわたしではありますが、この世にある限り、なすべき道をたんたんと歩み、実践していきたいと思います。今日は最後に、クルト・ルドルフの『グノーシス』の中から、『ギンザー・左の部』の詩句を引用して終えたいと思います。 囚われし者たちの門を私は通過した、 私の光輝が彼らの獄舎で輝いた。 私の光輝が彼らの獄舎で輝き、 彼らは私の香りによってよい香りを放った。 私の香りによってよい香りを放ち、 地獄も私の光輝で輝いた。 (囚われ)の魂たちはそれに気づくと、 泣き、嘆き、(涙を)流す。 私は看守に呼びかける、 「魂のために門を開け」と。 彼は言う、 「何千もの魂の中からどのくらい解放すればいいのか、 何万もの中からどのくらい解放すればいいのか」 と。 彼は私のために門を開き、 印を切って通過させた。 彼は私のために門を開き、 彼ら(解放された魂)に鎖の償いを与えた。 鏡さん、このグノーシスの「暗い音楽」はわたしたちをさらなる旅に誘います。それでは次の満月まで、ごきげんよう! 2002年1月24日鎌田東二拝 |