2004/5 満月 - Moonsault Space
![]() 陽光が美しい季節になりました。 今回の満月(月食)を少しすぎてしまいましたが、お許しください。 先生もまたブータンからお戻りになられたのですね。本当にお話を伺っていると、世界中を飛び回っておられるのだなあと思います。さまざまな平和の集まりに参加されて、メッセージを伝えていらっしゃる様子は、僕には、さまざまなクランのシャーマンたちが定期的に一箇所に集まり、さまざまな問題について話合い、祈りあっているヴィジョンを想起させます。 先住民族たちのあいだでは、きっとそうした「平和会議」が存在していたのではないでしょうか。そうした会議が、さまざまな紛争を解決する手段になっていたのではないかと勝手に想像しています。さまざまなところで起こっている、このような集まりが、地球の上に広がった神経ネットワークのなかの、白血球のような働きをしてくれることを切に祈らざるを得ません。 楽しい集まりといえば、先日も鎌田先生とお目にかかることができた、ケルト妖精学者の井村君江先生の出版記念・送別パーテイも本当に面白い会でしたね。 僕は大学生のころから井村先生にはかわいがっていただいているのですが、ほんとうに先生のお人柄、業績には驚かされます。 「ミリタリズム」の概念の違いは、本当にはっとさせられます。平和ボケといえばそれまでなのかもしれませんが、僕たちには本当に危機感がない。それがさまざまな問題を生んでいます。 もちろん、緊張感がある世界よりも、ぼけてしまってもいいから平和なほうがいいに決まっているのですが、しかし、世界の多くではまさに戦争やテロが進行中であり、それは僕たちにもすぐそこで関係しているのだということにたいしてもう少し敏感になってもいいのではないかと思うのです。ジャーナリストたちが人質になったことを考えても、もはや戦争はぼくたちのすぐ背後に影を落としています。複雑系のこの地球においては、僕たちだけが暴力から無縁であることなどできるはずはないのだと強く思います。今回の世論の動転振りを見ても、自衛隊派遣についてはもっときちんと論議をしてからやっておくべきだったということを強く感じます。 さて、 この連休に人から薦められたSF小説を読みました。 チャールズ・ペルグリーノという作家の書いた、『ダスト』というバイオホラーものです。(ソニーマガジンズ) 現代が舞台なのですが、突然、昆虫たちがほとんど絶滅してしまうという始まりです。昆虫という小さな生き物たち、ごきぶりやダニといったふだんは僕たちが厄介者として扱っているものが、実は地球の生態系全体の免疫のような働きをしていたことが判明します。 昆虫たちがいなくなることで、土壌は死に、植物たちは受粉ができなくなり、もちろん、昆虫たちを食べている生き物たちの食物連鎖も破綻し、文字通り地球は死にかける、という話です。 科学者たちはそのことにたいしてバイオテクノロジーのすべてを駆使して立ち向かおうとします。物語の展開は、実際に本を読まれる方のために秘密にしておきましょう。驚かされるのは、最新の科学知識、進化論の考えがちりばめられながら、シナリオが展開されていくとうことです。これほど昆虫の働きが大事だということを、具体的に描いてくれた作品はなかったでしょう。 マイケル・クライトンの「ジュラシックパーク」よりも、昆虫の役割という面白い視点をもったことで面白さは上ではないかと思うのです。また、そこはそれ、デマゴーグの創造論者も登場し、アメリカにおける宗教と科学の対立の一面も垣間見ることができるのです。カールセーガンもそうですが、こういうイマジネーションあふれる科学者が存在しているのですね。 先生なら当然、同意してくださると思うのですが、もはや文系理系などの区別は存在せず、地球、宇宙といった視点のなかでコスモロジーを再創造すべきときにきています。占星術という古いコスモロジーは、そのなかで何か知恵をもたらしてくれるのでしょうか。 先生のブータン旅行のお話、楽しみにしております。 今回は短いですが、またの折に、改めてお手紙さしあげます。 平和を祈りつつ。 敬具 2004年5月7日 鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま 鏡さん、今日は5月4日、タイのバンコクでこのレターを書き始めることにします。 実は、わたしたち3人は、今日ブータンの玄関口であるパロからバンコクに戻りました。わたしたち3人とは、宗教学者の町田宗鳳(東京外国語大学教授)さんと文化人類学者の上田紀行(東京工業大学助教授)さんとわたしの3人です。 去年の3月にはこの3人でアメリカ・カナダを旅し、生命倫理の状況をリサーチしたことを2003年3月17日付けのムーンサルトレターで書きました。あれから1年少し経ちましたが、イラク戦は1年経っても終らず、パレスチナ-イスラエル問題とも絡み、ますます混迷の度を深め、戦争の狂気と欲望を露わにしつつあります。 ブータンという国にいた時、あれほど静かなひと時を過ごすことができたのに、パロからカルカッタを経由してバンコクに着いた途端、大変ノイジーな、騒がしい「現代」が始まった感じがしました。ここに流れている時間も展開している空間もまさしく「現代」です。 しかし、ブータンにはそのような「現代」はありません。というよりも、そこに近づかないような意識的な「迂回」を試みている実験的な国家だと言えるかも知れません。それを象徴的に表しているのは「空港」でしょう。ブータン国には2台の飛行機しかなく、離陸と着陸を交互にしますから、1日1便しかなく、バンコク発、ミャンマーのラングーン、インドのカルカッタ経由で運ばれてくる70人の人だけが入国することができます。 それを1年365日で計算すると、マキシマム25,550人入国することができますが、実際には、冬期と雨季には観光はできないので、1年間の内、ほぼ観光シーズンの5ヶ月の間に1万人か最大1万5千人しか入国を許可することがありません。ということは、やはり半年間に1日に70人ほどしか入国を許可しないということです。半年だけ、1日70人の外国人を緩やかに受け入れながら、この国は自分自身の国に流れている時間を崩そうとしません。 それは「近代」や「現代」が胚胎してきたグローバリゼーションとはまったく対極的な方向に位置している国のあり方ではないでしょうか。アジアの中で、「脱亜入欧」を掲げた日本がグローバリゼーションに邁進した「近代化=西洋化=都市化=工業化」の優等生だとしたら、ブータンはその反対に位置している国でしょう。 しかし、アジアの対極にある国がどちらも王権と仏教を国の基本的な体制と文化として保持してきたという共通項を持っているのも面白い対照性ですね。 ところで、このレターをパソコンで書き始めたわたしは、つい今しがた、町田さんや上田さんとは別行動をして、一人でバーミーナム(タイラーメン)とご飯の60バーツ(約180円)の質素な食事をしたあと、ホテルの周りをぶらつきました。 今日は上田さんの誕生日だったので一緒に行動していろいろとお祝いしたかったのですが、明日一緒にアユタヤ遺跡を見学に行くので、その時にお祝いすることにします。 ここには「近代化」の果てに起こってきたグローバリゼーションが横溢しています。インターネットショップや電化製品が溢れるほど並び、売られています。ブータンでの小さな乏しい店棚を昨日まで眺めて通ったのが夢のように遠く感じられます。 「これが『近代』なのか。商品に満ち溢れているけれど、何かギスギスして荒れてる感じがするな。人も街も、金、金、金に流されている感じがする。ガンジーがイギリス人は商売をするためにインドを支配し、日本もきっとそうするだろう、と言ったのは正しかったな。ガンジーの言うイギリスをアメリカに変えたら同じことが起こっているもの。イギリスのインドにおける植民地支配は、そのまま戦後のアメリカの日本支配と同じ構造ではないか。結局、アメリカは日本を市場にしたかったのだ。自分たちの商売をするために。商品や武器を売りつけるために」。 そんなことをあれこれ考えながら明るい店々を歩いているうちに、珍しく一軒の楽器店があり、ショーウンドウにギターが並んでいたので、ドアを押して入っていきました。店には売り子の若い女の子とエレキギターを弾いている若い男の子二人がいるだけでした。 ギターを見てみると、日本の”TAKAMINE”のギターがたくさん並んでいました。「神道ソングライター」のわたしが普段愛用しているのも”TAKAMINE”なので、親しみを感じ、一本のクラシックギターを手に取って弾きました。 30分ほど弾きながら歌って、別のギターを取ってそれを試し弾きしようとすると、店の女の子が「バツー!」と言う。どうやらそのギターはバツーというギターらしいです。男の子たちも口々にそう言うのですが、英語で話しかけてもうまく通じません。が、めげずに、「わたしは日本のミュージシャンです」と名乗って、昨年の9月11日にリリースした『なんまいだー節』の中に納めた曲「風が運んでくる想い出」を歌いましたら、何と、拍手喝采。店にはわたしの他にこの3人しかいません。 もう一曲「弁才天讃歌」を歌うと、またもや拍手喝采でした。弁才天の真言を唱えるところから始まるこの曲の調子を彼らは何と感じたのでしょうか。 エレキギターを持っていた若い男の子が日本のロックが好きだと言って、何人かの名前を挙げました。「ヒデ」とか何とか言っていましたので、Xジャパンのファンなのでしょう。タイでは今もXジャパンが大人気のようです。 「それじゃー、日本のロックを歌おうか。ピックを貸して」と言って、女の子よりピックを借り、やはり『なんまいだー節』に収めてある「フンドシ族ロック」をAmコード進行のアレンジで歌ったら、これがすごい拍手で、売り子の女の子が嬉しそうに「アイ・ライク! アイ・ライク!」と繰り返すのです。 日本でもこんなにストレートな反応はないのにな。しかし、この曲の意味を知ったら、彼らはどう反応するだろうなと思わず爆笑しそうになりました。何と言っても、「おまえのフンドシ赤フンか 空を飛んでゆけ / おれのフンドシ青フンよ 海を越えてゆけ」というフレーズで始まる歌だもん。 この女の子が歌の意味を知ってくれても「アイ・ライク! アイ・ライク!」と言ってくれるかな、などと思いながら、みんなと握手してその店を後にしました。男の子が出て行きしなに「さよなら!」と声をかけてくれたので、「コップンカップ!」と合掌して返礼を返すと、彼らも口々に「コップンカップ!」「コップンカー!」と返礼してくれました。とてもとても、心温まる時間でしたね。 このグローバリゼーションの出店のようなバンコク郊外の大型電化デパートの中に一軒の楽器店がなかったら、こんな言葉を介さないコミュニケーションが成立することもなかっただろうなと思うと、人間の心の通い合いにはさまざまな道と可能性があると思わずにはいられませんでした。特にそれがモダンミュージックであろうがロックミュージックであろうが、音楽には言葉と時代と国を越えて通い合う何かがあると改めて確信させられました。 鏡さん、こんな体験を今してきたばかりなのですよ。そしてそのことを、ホテルの部屋に帰ってTVのBBC・Worldのニュースを横目で見たり聞いたりしながら書いています。途中でチャンネルを回すと、NHKで夏目漱石の「夢十夜」を若尾文子が朗読していて、思わず見入ってしまいました。演出は石井聡悟監督。 これは、実に面白い内容でした。普段テレビは見ませんが、これは見得でしたねえ。 漱石はすごい夢を表現していますね。ハーンの『怪談』に匹敵するような。明治43年、東京大学予備門で同級生だった南方熊楠が激しい神社合祀反対運動を展開した1910年に、夏目漱石はこんな不思議な夢物語を書いていたのでした。 うーん、漱石に対する見方や評価が少し変っちゃったな。 さて、ブータンのことに戻ります。 ブータンは、ある意味で、「中世」が生きている国です。その意味は、「モダン=近代」に対して意識的な距離をとっているという意味です。 「中世」を意味づける指標として宗教(神聖権威)と王権(世俗権力)があるとしたら、ブータンにはその二つの指標がユニークな合一を成し遂げていると言えるでしょう。 タイもある意味では、宗教と王権が補完しあっている社会です。いわゆる小乗仏教と呼ばれるテーラヴァーダ(部派)仏教と王制が、タイ社会の精神的・文化的・政治体制的基盤をなしています。その点ではブータンや日本も似たところがあります。仏教と王権が今も生きているという点で。 しかし、ブータンと日本には大乗仏教と密教が入り、共に土着の宗教である神道とボン教にシャーマニズムの要素が強いので、部派仏教と土着のピー信仰などのアニミズム的要素の強いタイの宗教文化よりも、ブータンと日本の宗教文化のほうがもっと共通要素が強くあるかもしれません。 わたしは、ある方の紹介で、現国王の母君のブータン皇太后の宮殿で、ケサン・チューデン・ウォンチュック皇太后とアシ・ケサン・ワングモ第四王女に謁見し、そこで、ブータン一の高位の僧でドゥック派の最高指導者ジェ・ケンポ師や国立図書館長ミュナク・トゥルク師ともお会いしました。 行く先々の寺院や僧院で、法螺貝を吹き、般若心経と十念仏を唱えましたが、皇太后の宮殿の仏前でも法螺貝を吹き、般若心経と十念仏を唱え、「神ながらたまちはへませ」を8遍朗誦し、石笛と横笛を吹きました。 皇太后は、とてもエレガントで、透明で、優しく、美しい方だと思いました。とりわけ、宮殿に咲いている黄色い野ばらを摘んでホテルまでお届けくださった細やかなお心遣いは心に沁み、お人柄に打たれました。話を交わしてもとても柔らかな波動で、風や花のような爽やかな風格に感銘しました。70歳を越えていると思いますが、ほんとうにすばらしい方だと感じ入りました。 日本は島国のために海が自然の防波堤となり、外的からの侵入を防ぐことができましたが、ブータンもヒマラヤ山中に面しているため、7000メートルを超える世界有数の高山が自然の防波堤となり、外敵の侵入を容易ならざるものとしました。どちらも海の果て、山の果てにあり、常世や他界やシャングリラと近いこの世の果てに位置したのです。その自然地理学的かつ地政学的条件に恵まれたために、両国とも、神道やボン教という、シャーマニズムの要素の強い古層の宗教文化の上に伝来の大乗仏教や密教を接木することができ、独自の習合文化を作り上げました。それを王権が支え、補完し合いました。 ところで、ブータンにあって、日本にないのは、「ミドル・パス=中道」と「輪廻転生=リインカネーション」と「GNH=グロウス・ナショナル・ハピネス」の思想です。 近代化でもなく非近代化でもない、過剰でもなく過少でもない中道の道。それを行く人々と国の速度は、「風の谷」のようにゆるやかな風と気配が漂っていて、一日一日を振り返り味わうことができます。人間も動物もあらゆる命もみな輪廻転生の輪の中にあり、「カルマ=業」の下で生を営んでいると考えられています。仏教学者の梶山雄一氏の『「さとり」と「廻向」――大乗仏教の成立』(講談社現代新書)の中の言葉では、因果応報と業は物理的必然性と自己責任性ということになります。 生命倫理の問題に対処する場合も、この輪廻転生と業の考えが基本になります。それが現代医学や脳死・臓器移植やエンブリオなクローニングなどの現代医療とどう切り結ぶかがこれから問われてくることになるでしょう。遠からず、現代世界も問題は「風の谷」ブータンにも押し寄せることになるはずです。 とはいえ、現国王が、「GNP=国民総生産」ではなく、「GNH=国民幸福価値創造」を目標としていることは注目すべき点です。国民すべての医療費と教育費が無料であるという社会福祉や保障のあり方も注目すべきです。 2・26事件の理論的指導者で、『国体論及び純正社会主義』や『日本改造法案大綱』論者の北一輝がもしブータンを見ていたら、そこに彼の理想とする社会が存在していると狂喜したかもしれません。なぜならそこには王の親政と利他の仏教精神に基づく国家社会主義が実現しているといえるからです。法華経を信奉し、法華革命による日本改造を構想した北一輝や石原莞爾ならブータンを理想国家の現成と称えるかも知れません。 それはともかく、国民的「ハピネス」の創造という指標は、21世紀の社会構想として特筆すべき先見性を持っているといえるのではないでしょうか。そこにはもちろん、平和・安心・安全・優しさなどの指標が入っていると思いますが、同時に芸術・芸能やスピリチュアリティの指標も入っていると思います。幸福とは、決して物質的満足だけでは測ることのできない精神的価値充足を含んでいるからです。 今度の旅で、わたしは「速度」について考えることを余儀なくされました。これまでわたしは「光速」よりも早い「魂速」を求めてきましたが、それはしかし、終には速度の放棄という無の地点からのフィードバックを必要とするのではないかと思うようになりました。速さの果てにある速度ではなく、速さを超越する浮遊する無。たましいの速度とは、そんなこの世の時空間の制限を立体交差的に突破する速度ではないのかと。 昨日、5月6日に帰ってきて、このレターを仕上げることになりました。今回は満月をすでに過ぎてしまいましたが、何か速度を落とすのか早めるのかわからない「魂速」の世界へと参入していきたいと思うに至りました。そして、それには間違いなくブータン的な時空間が必要だと。「天空の城ラピュタ」や「風の谷」のような速度が。 最後に、わけがわからないような言い方になってしまいましたが、これからの「世界平和」を考える際にも、ブータンの位置と意味は大きいものがあるとわたしは思っています。思考を構築する支軸となるような。 かくして、4月29日から5月6日まで、タイとブータンを旅しながら心の内に問いかけたものには深く巨大なものがあり、今もその問いを心の内で反芻し続けています。 2004年5月7日 鎌田東二拝 |