2005/3 満月 - Moonsault Space
![]() 大変、大変ご無沙汰していて申し訳ありませんでした。忙殺、というほどでもないのですが、なんとなく慌しく過ごしていて、いったん穴をあけてしまうとそれがプレッシャーになって、また筆が取れない、という悪循環にはまっておりました。すみません。 僕のほうはここ数ヶ月、いろいろ新しいことに挑戦、もとい、流されていろいろやっておりました。今は一段落したのですが、テレビの仕事が増えたというのもありました。 TBSのお昼の番組「きょう発プラス」では、毎週金曜日にその週の星まわりやら西洋の歳時記的なことをお話しています。 また、1月から3月までレギュラーで出演していたCX系の「グータン」という番組では、出生年月日と生まれた時間、場所だけを与えられて完全にブラインドでその相手を分析する、という荒業に挑戦させられていました。ホロスコープだけで相手の心理状態やこれまでの経緯を推測させられるというわけです。フタを空けてみると、元力士の花田勝さんやミュージシャンの松岡充さん、コメデイアンの青木さやかさんであったりしました。 最初はそんなことはとても無理だと思っていたのですが、完全ブラインドでのホロスコープ分析は結構面白くて、テレビ的には「当たっている、すごい!」とゲストの方やMCの方が絶叫することもしばしば。自分でもその当たり方に驚いたほどです。これで占星術が当たる、とは強弁する気はありませんが、ときに占星術という場では面白いことが起こるものだと改めて感じました。たとえば、花田さんのチャートを見たときに「まるで軍人のようなイメージのホロスコープですね」とコメントしたら、そのVTRを見たご本人が「いや、あまり口にしてはいけないと思ったんですが、かつて軍人に憧れて外人部隊に入りたいとまで思ったこともあるんです」と。オンエアされないところでも「思い当たる」とおっしゃっていただくことが多かったようです。 ここで普通の占い師さんであれば、ほら、よく当たる!といっていいのでしょうが、僕としては「当たる占い師」という評判が一人歩きするのは怖いし、またこれは占いの空間にしばしば起こる、再現が難しいシンクロニシテイだと思っているので、自分でも戸惑ってしまったのが正直なところでした。番組は好評だったようですが、春の改編で時間帯も内容も変わるので、出演頻度は低くなりそうです。残念なような気もするのですが、内実、ほっとしているというのも本音です。あまり個人鑑定をしていなかったのですが、こういう場でかえって占星術のもつ魔力を知り、その功罪をともに実感できたのはいい経験でした。 ほかには、トークショーなどいくつかやらせていただいておりました。3月26日にはパリの五大宝飾メーカーのひとつ、ブシュロンが女性誌FRaUと共同で行ったカクテルパーテイでトークショーを行いました。占星術の伝統と宝石の伝承の関係を中心にお話をさせていただきました。 また4月2日には、朝日カルチャーセンター新宿にて、明治学院大学教授・加藤秀一先生と対談講座「幸せってなに」を行いました。加藤先生はフェミニズムやジェンダー論を専門にされていて、恋愛結婚の歴史などにお詳しく、「純粋」であると考えられている恋愛がいかに結婚という制度と結びつき、それが国家を支える優生思想に取り込まれ利用されてきたか、その経緯を明瞭にご著書で書かれています。それがちくま新書「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」なんですが、この本をたまたま書店で手に取った僕は、あまりの面白さに興奮して、こちらから連絡をとらせていただいて講義をお願いしたのでした。 結果として、フェミニズム、女性誌における「幸せ」観、占いと「おんな」性、欧米の魔女運動などに話はふくらみ、拡散しつつも盛り上がっていきました。こういう先生と話をさせていただけるのはとても幸せなことだと思いました。 細木数子さんの占いに代表されるような、ありもしない「伝統」家族への回帰論に多くの人が回収されていっている様子に、ちょっといらいらしていたところだったので、心強くも感じたのですが、さらにこうした社会学的な視点や成果と占いのメッセージをどんなふうに接続してゆけるかは、僕に与えられた課題だと感じました。今月18日には同じく朝日カルチャーで、宮台真司先生との対談もあります。こちらも楽しみです。 さて、後先になってしまいましたがご著書『霊性の文学誌』(作品社)、拝読させていただいております。いつもながらの熱い先生のメッセージがほとばしっている本ですね。文学には疎い僕ですが、この本をガイドにいろいろ読ませていただこうと思っています。とくに折口信夫の端麗な文章には、久しぶりに触れていこうかと思っていたところでした。 なんだか現在の報告ばかりになってしまいましたが、先生のほうもお体をお大事になさってください。相次ぐ地震など不穏な空気はありますが、そのなかでも心の健やかさを持って生きていかねばならないと感じています。 2005年4月4日 鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま 鏡さん、お久しぶりです。とても忙しい時に、合間を縫って、ムーンサルト・レターをお書きいただき、感謝いたします。TBSの「きょう発プラス」とCX系の「グータン」でのテレビの仕事、面白そうですね。特に後者のブラインド・ホロスコープ、わたしも一度だけ見たことがあります。陣内孝則という俳優の回でした。その時も、陣内孝則氏が「当っている!」と驚いていましたね。以前、朝日カルチャーセンター横浜で対談した時、わたしのホロスコープを見てもらったことを思い出しました。 朝日カルチャーセンターでの加藤秀一さんとの対談について、「恋愛がいかに結婚という制度と結びつき、それが国家を支える優生思想に取り込まれ利用されてきたか」という視点は、植民地支配と結びついた文化研究批判を展開したカルチュラス・スタディーズにもつながるものだと思います。 以前わたしは、「輪廻家族の誕生」という論文を書いて、『老いと死のフォークロア――翁童論2』(新曜社,1990年)と題する本に収録したことがあります。そこでわたしは、家族の形態にもいろいろな形があり得、今後それがさらに多様なヴァリエーションを生んでいくのではないかと予測しました。家族の形成も人々の出会いも、「輪廻転生」という観点から見るならば、宮沢賢治が「ビヂテリアン大祭」で記したように、「みんな昔からの兄弟」なのだから、血統という血のつながりにだけこだわる必要がないと思って書いたものです。 つまり、血のつながりのない家族の形成はどのようにして可能か、という問題です。若い頃は生涯絶対に結婚などしないと言い張っていましたが、人生の不思議で、同級生のだれよりも早く結婚をしてしまったわたしでした。そして、大宮の妻の実家で、妻の父母と暮し、看取るという三世代家族を営んできました。 が、現代において、少子高齢化が進み、シングルが増え、同性愛者の家族形成も視野に入れると、いろいろと多様な家族のあり方があっていい、とわたしはずっと思ってきました。若い頃には結婚をしないが、なぜか養子を育てたいとも思っていました。10年前、ベルリン郊外の旧東ドイツの小学生を知り、養子にもらいたいと交渉をしたことがあります。わたしの家族を説得し、相手先の家族に話を持っていったのですが、日本のような遠いところに子どもを遣るのは心配だということで話は中断してしまいました。里子や養子など、いろいろな子どもの育て方をしないと未来の展望は開けないのではないかと思っています。特に、少子化時代では、「里子」体験は重要になるのではないかと思います。実の父母だけでは、もはや子どもを育てきることはできないのではないかとすら思います。 わたしの家族観は、伝統家族回帰論ではなく、新家族・新共同体形成論を目指すものです。わたしは、老人ホームと幼稚園や保育園を共同化する必要があるという提案を『翁童論――子どもと老人の精神史』(新曜社,1988年)以来してきましたが、最近はそれに加えて、それを新しい共同体にまで広げる必要があるのではないかと思うようになりました。老人介護施設が花盛りですが、多くの人の老後は悲惨です。老年生活を本当に創造的に豊に生きていくための力と知恵が必要だと痛感します。そのためにも、日々の人生の練り上げ方が大事ですし、自分の家族の問題だけでなく、共同体的な問題と取り組む必要があると思います。 レターを書きながら、夕暮れ時の庭を見ています。杏の花びらが風にそよいで、ちらちらと散っています。満開が過ぎ、昨日から散り始めました。昨日は、杏の花びらは風もないのにはらはらと散っていました。穏やかな春のうららかな日曜日の午後でした。静かな、静かなこの日曜日でも、地球上のさまざまな場所では、戦争、飢餓、病気、殺人、暴力など、絶え間ない事件と問題が起きているのですね。千手千眼観音は、その千の目で、この世界に起っているすべてのことを見届け、その痛みと悲しみを千の手を以て救い取ろうと尽力されていると言われます。にもかかわらず、わたしたちの世界から苦悩と痛みと悲しみが消え去ることがありません。穏やかな静かな一日であればあるほど、その底でも上でも逆巻いている怨嗟の流動を感ぜずにはいられません。 さて、わたし自身に即して言えば、3月になって、4つの大きな出来事がありました。第1に、3月1日から5日まで、沖縄に行って、大重潤一郎監督(NPO法人沖縄映像文化研究所理事長、NPO法人東京自由大学副理事長)の長編記録映画「久高オデッセイ」の製作の仕上げの手伝いをしたこと。第2に、沖縄から東京に帰ってきたその日、3月5日の夜、阿佐ヶ谷の名曲喫茶店ヴィオロンで曽我部晃さんと唄合わせ対決十番勝負ライブを行なったこと。第3に、3月19日から21日まで、2泊3日で、栃木県那須に、NPO法人東京自由大学の春合宿に出かけたこと。第4に、3月24日から30日まで、丸1週間、品川の高輪プリンスホテルで「第19回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR日本大会)」が行なわれ、実行委員・アトラクション委員として開会式から閉会式まで、毎日参加したこと。 NPO法人東京自由大学の春合宿では、春のうららさんという不思議な仙人のような画家の那須山腹のお宅(と言うべきか、何と言うべきか?)を訪ね、アフリカのカリンバの演奏会を聞いたり、うららさんの原初的な絵の個展を見たり、雪の中を那須岳まで登ったり。楽しくも、面白い日々でした。友人のペンション「雷庵」の心のこもったホスピタリティも嬉しかったし、大学時代の同級生の親友戸田日晨・日蓮宗大荒行堂遠壽院傳師のとても素朴なログハウスの庭を子どもたちともども、共同描画に使わせてもらったこともよかったですね。 感動的だったのは、那須山腹の北温泉旅館の不思議な空間でした。江戸時代から続く、谷間の一軒家の温泉旅館なのですが、桃源郷か、つげ義春の漫画に出てきそうな雰囲気の宿屋で、玄関に入った途端、左手に神社の拝所があったのにはガツンと来ました。迷路のような複雑系の建物は、あまりに幻想的で、江戸川乱歩か横溝正史の怪奇小説の舞台になりそうでした。実に実に、好みの宿でした。鏡さんも一度機会があったら、ぜひ行ってみてください。朝方、吹雪の中の露天風呂に入りましたが、とてもとても寒かったけど、ほんとうに感動しました。夢のような、異次元空間を感じました。得難い極楽浄土体験でした。 ちょうど、合宿期間中に、54歳の誕生日を迎えました。誕生日の3月20日の夜のミーティングで東京自由大学の成立の経緯を振り返って全員で話をしたことも忘れられません。ちょうど、丸10年前、地下鉄サリン事件が起きたのでした。わたしの人生もその事件で変わったと思います。その後のすべてのわたしの著作は、オウム真理教事件が何がしか、尾を引いています。 さて、「第19回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR日本大会)」は66ヶ国から1600人の宗教学・宗教史研究者が集って学術会議をするという、最大規模の大会になりました。学術的にも人間的交流の面でもたいへん意義深い大会だったと思います。大会の終了後、IAHRのペーター・アンテス前会長を始め、多くの海外からの参加者からIAHR日本大会の質と運営について多くの感謝と賞賛の声が寄せられました。閉会式では実行委員長の島薗進氏(日本宗教学会会長・東京大学文学部教授)の挨拶の後、自然発生的にスタンディングオベイションが起こりました。わたしもその場にいて拍手を共にしていましたが、目頭が熱くなりました。島薗進氏の人柄と献身的な努力には心から敬服し、敬意を捧げずにはいられません。このスタンディング・オベイションで、本当にこの度の大会が大成功のうちに終ったことを実感しました。 ハケットIAHR新会長は、「東京大会はIAHRの歴史を作った」と言われたそうですが、本当にそのとおりだったと思います。東京大学を始め、いくつかの大学の協力があり、若い彼らに強烈なインパクト与えたことでしょう。成果が何年か後に必ずや稔りある形で現れてくると確信します。そして、今後の日本の宗教研究にさらに生かされていくことでしょう(詳しくは IAHR東京大会のホームページをご覧下さい。)。 わたしはそこでアトラクション委員として、開閉会式などのプログラムの策定や出演者交渉などを担当しましたが、同時に、3月26日(土)に行なわれた大重潤一郎監督の映画「久高オデッセイ」の上映の司会と、その後のシンポジウム「伝統文化・先住民文化の危機と現代人の霊性」にパネリストとしても参加しました。映画「久高オデッセイ」の方は、300人近い入場者があり、大方の評判もよいものでした。 シンポジウムの方も、大重潤一郎監督の脳出血に倒れたところから再起した力強い元気な声を聴くことができましたし、パネリストの作家の宮内勝典さん、ジェイコブ・オルポナさん(カリフォルニア大学ディヴィス校教授・アフリカ宗教学)、オーレン・リアンズさん(北米先住民ホデノショニ長老・国連環境計画先住民委員、ニューヨーク州立大学バッファロー校教授)の話もそれぞれ、深みとリアリティのある問題提起的なものでした。アメリカ先住民研究者の阿部珠理さん(立教大学教授)が司会を担当してくれたのも、よかったのではないかと思います。 昨年10月に倒れてから初めて沖縄から外に出る体験をした大重監督本人にとっても、とてもよい経験だったようです。大重さんは、帰りの飛行機でしみじみ「俺はな、亀田。自信がついたよ。沖縄を離れて二泊もできたなんてよ。俺のイニシエーションだったな」と同行のNPO法人沖縄映像文化研究所の若いスタッフの亀田さんに語ったとのことでした。NPO法人沖縄映像文化研究所(〒900-0015 沖縄県那覇市久茂地3-26-1-4F TEL/FAX: 098-861-0061)について、詳しくは、URL: http://www.lico.jp/ をご覧下さい。 映画は、大重監督と若きスタッフとが、毎日リハビリをしている病院内で、最後の最後まで作品の仕上げを頑張ってくれ、国際宗教学宗教史会議での上映作品に相応しい内容になったと思っています。思えば、1年前にこの企画の構想を相談し始め、このような形で実現したことに、大重さんの友人として、感慨無量のものがあります。本当にありがたいことです。大重さんも、生涯忘れられない思い出となったと思います。その日、3月26日は、十六夜の晩で、まんまるなお月様のすぐ右上に煌々と金星が照り輝いているのがよく見えました。わたしは、1995年4月に神戸で大重さんと出会って7年になりますが、この間、彼とは一緒に「魂速」で走ってきました。 この大重潤一郎監督作品『久高オデッセイ』(2005年製作)は、12年に1度行なわれる神女の継承式イザイホーなど、古き祭祀文化を伝えてきた沖縄県久高島が、現代社会の大きな変動の中でその伝統を喪失しつつも、いかにして霊性の深みからの再生の糸口をつかむかをメインテーマとした記録映画です。 ところで、大重潤一郎監督のプロフィールは次のとおりです。1946年、鹿児島県生まれ。岩波映画の助監督となり、ドキュメンタリーを学ぶ。1970年に岩波の仲間達と自主制作で劇映画「黒神」を完成、ホールを借りて全国で自主上映する。この上映の拠点のひとつであった神戸に転居し、地方自治体の反公害映画やテレビドキュメンタリーなどを制作。76年から東京で制作会社経営に専念する。90年代に神戸に戻るが、95年、阪神淡路大震災に遭遇、その惨状を身をもって体験する。そこで得た経験から、自然に対する畏敬の念が益々深まり、映画作りへの意欲を燃やす。沖縄の自然をテーマとした「光りの島」を皮切りに、自然の中における人間の位置を、常に自然の側から問いかける作品を作り続けている。 2003年ベルリン国際映画祭に正式招待。2002年NPO法人沖縄映像文化研究所を設立、理事長に就任(URL: http://www.lico.jp/)。2004年、沖縄県より「美(ちゅ)ら島大使」の任命を受ける。2005年3月、神の島と呼ばれる久高島(沖縄県知念村)を舞台にした映画「久高オデッセイ」第一部を完成。NPO法人東京自由大学副理事長でもある。 監督作品:「黒神」(1970年、劇映画 モノクロ35mm)、「小川プロ訪問記」(1981年、大島渚・小川紳介出演)、「光りの島」(1995年、上条恒彦出演)、「風の島」(1995年、元沖縄県立芸術大学学長・陶芸家・大嶺實清出演)、「縄文」(2000年、梅原猛監修)、「原郷ニライカナイへ」(2001年、比嘉康雄出演)、「ビッグマウンテンへの道」(2001年、山尾三省朗読) 大重監督は、2001年に、「ビッグマウンテンへの道」を製作していますが、このドキュメンタリーは近いうちにムーンサルト・プロジェクトからDVD化される予定です。「ビッグマウンテンへの道-アメリカインディアンの聖地訪問の記録」 (2001年作品/上映時間45分)製作・監督・撮影・編集 大重潤一郎、音楽・録音 岡野弘幹、ナレーション 山尾三省(詩人、故人、『アニミズムという希望』野草社、など多数) 参考までに、この映画について、NPO法人沖縄映像文化研究所のホームページから説明を以下に引用しておきます。【永い過酷な歴史を強いられてきたネイティブアメリカンの中でも、アリゾナにある聖地ビッグマウンテンを守るナバホ族のおばあさんたちは「最後のインディアン」と言われています。今でも英語を使わず、電気水道ガスもない昔ながらの暮らしの中で、日々大地に祈る伝統的な生活を営んでいます。そのおばあさんたちのもとにも強制移住の荒波は容赦なく襲っています。2000年、世界中の若者たちがおばあさんたちにエールを送るためにビッグマウンテンを目指しました。日本からも、600マイルを行進して数十名の若者が参加しました。当作品はその行進を記録したものです。】 久しぶりに、鏡さんからのレターをいただいて、返事が長くなってしまいました。最後になりましたが、最新著『霊性の文学誌』(作品社、2005年3月20日刊)は、地下鉄サリン事件=オウム真理教事件から10年目に出した、わたしとしても念いのこもった本です。わたしは「文学」や芸術という営みに関心を持ち続けてきましたが、この40年、折に触れて愛読してきた17人の作家や思想家や俳優を取り上げています。尊敬する美輪明宏さんについても書きました。多くの方々に読んでほしいと望んでいます。 鏡さん、今後とも、ムーンサルト・レターを書ける時にぜひお書きください。気楽に。よろしくお願いいたします。楽しみに待っていますよ。それでは、ごきげんよう。 2005年 4月4日 鎌田東二拝 |
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2004/10 満月
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