2004/10 満月 - Moonsault Space

拝啓 鎌田東二先生

 またしても締め切りを大幅に過ぎてしまいました。あきれられてしまっているかもしれませんね。申し訳ありません。結局、楽しみにしていた英国での学会にもいけず、日々をあわただしく過ごしております。9月27日から始まったテレビでのレギュラーコーナーなどやらサイン会からで、今年の秋は例年以上にあわただしいかんじなのです。重ねてお詫び申し上げます。

 さて、『呪殺・魔境論』、お送りいただありがとうございました。このテーマは僕にとっても人事ではないものですから、真剣に受け止めて読ませていただいております。正直なところ、本当にサイキックなパワーで人にダメージを与えることが出来るのかどうか、僕にはわからないのですが、少なくともそのイメージを前提とした場合には、ここには何か「ブラック」なものがあります。

 河合隼雄先生が、援助交際について「体にも心にも悪くないかもしれないが、魂にとって悪い」とおっしゃったようなこと、あるいは、スコット・ペックが『平気でうそをつく人』であげているような、神経症を患っていた人が「架空の」悪魔と契約してその症状を取り除かせたときに残った後味の悪さのようなものが呪いや魔境にはあると思うのです。つまり、こういうことです。

 いわゆる霊的なものの存在を一切無視したとしても、「呪い」には、何か人間としてかかわってはいけない何かがあることが感じられる。その常識的な感覚の由来を、元型的な基盤に求めるとするなら、それこそが人間が本来もっている社会性なり、利他性ではないかと思うわけです。

 しかし、一方で西洋の魔術の伝統に惹かれていた僕には、こうした「魔」的なものとかかわることへの魅力はよくわかります。オウムもそうでしょうし、とりわけ一部の魔術的な伝統に引かれる若者は、この社会にたいしてのいかにも青年的な違和感をもっています。純粋な生き方を思考していてもなお、この社会のなかの汚辱には勝てない。健全なかたちでの新旧の対立ということでいえば、今回の野球の選手団とオーナー側などがその格好のモデルを見せてくれたのでしょうが、現実の多くの面ではそういうかたちではうまくいかない。Don’t Trust over 30というわけです。

 そのときに、この社会の秩序とは違う秩序、レフト・ハンド・パスを志向しようとする若者たちがいたとしても、不思議ではないでしょう。オウム事件のあとに僕が「リトル・グノーシス」たちと呼んだタイプの若者です。最近は、むしろ、こういうタイプの若者ではなく、純粋さのいかんにかかわらず、自分のステイタスを一気に上昇させようとする「スカウト待ち」のタイプが増えているようにも思えるのが気になるところではありますが(先日驚いたのは、生き方で悩んでいるという若者と話していて、尊敬する人はと訪ねたら、真顔で若手タレントの名前を挙げた子が多かったことです)、しかし、少なくともこの社会とは別な秩序と世界の存在を、呪術と魔の世界に求めようとする連中がいたとしてもおかしくはないということです。

 一部の激しい音楽と魔術が結びついたり、クロウリーから派生してきた、善も悪もないとするケイオス・マジックのファッション性はそうしたところにあります。しかも、きわめて重要なことは、ときにドラッグの使用を併せ持つ魔術的、呪術的テクノロジーは実際に意識変容を起こさせ、魔の世界と力を現出させてしまうわけです。そこから起こってくる破壊的なパワーは、きわめてリアルなものです。

 はじめは、青年らしい純粋さからスタートした、健やかなる反抗の霊性の探求が、実際に元型的なエネルギーに触れることによってコントロール不能となり、自我のインフレーションを起こしてしまうという道筋は魔術の世界ではよくみることです。だからこそ、魔術の修行においては自我のインフレーションを起こさせないように慎重に慎重に進めてゆくのですが。

 僕が籍をおいていたイギリスのある魔術指導グループでは、少しでもアヤシイ兆候があるとすぐに瞑想やヴィジュアライゼーションのトレーニングを休むようにと諭されました。いずれにせよ、魔境へのひとつの道は「純粋さ」であることは間違いないと思うのです。純粋さを保持しつつ、自我の膨張という魔境にも入らず、「大人」社会のなかで生きてゆくための隘路を、僕たちは若者に示さなければならないと思います。

 さて、また最近、面白い本を見つけました。岩波新書から出た『逆システム学』という本です。金子勝、児玉龍彦氏という経済学者と生物学者の共著なのですが、市場と生命のしくみを要素還元論にも単純なホーリズムにも陥らないで、フィードバックシステムの束としてとらえることで理解しようというアプローチです。もちろん、これはサイエンスですから霊的なものが入る余地はないのですがいたく感銘を受けました。経済システムと生命のシステムが、同じ原理で説明できるというのはいわゆる複雑系の科学が提唱していることですが、これまでのパラダイムの転換の歴史をおいつつ、今後の展望をわかりやすく示した本はこれまでなかったような気がするのです。

 この本の結論部分で書かれていることは、きわめて常識的なことですがそれを科学的に語っているところがすごい。著者たちは多様性の重要性をこんなふうにいいます。
 「競争淘汰はたしかにある。だが、多様性をもった多重制御系は、生物の生み出した淘汰で生き残る最大のしくみである。多様性を生み出し、支えながら、競争を可能にする多重的なしくみこそが求められるのである。多様性を認め合う民主主義の普遍的価値の根拠はここにある。・・・ところが現在の経済学は『価格メカニズム』と『効率性』という一元的価値に支配される世界で埋め尽くされ、民主主義と多様性を根拠付ける枠組みを失ってしまった」

 この価値の一元化は、神と自分とを同一視する魔境と驚くほど似ています。魔境化する世界、というのはまさにこのことをさしているのではないでしょうか。そんななかで、少しでも多様性を残すことが、僕たちには必要なのではないかと思います。

 それでは。またお手紙書きますね。

2004年10月3日 鏡リュウジ拝



拝復 鏡リュウジさま

 鏡さん、レターありがとうございます。10月2日・3日と猿田彦神社で恒例の「おひらきまつり2004」が行われ、世話人代表としてそれに参加していました。そしてそのまま京都に行って、大学の授業を行い、委員会や会議をこなし、昨夜遅く帰ってきましたので、すぐにお返事ができず、申し訳ありませんでした。忙しい中、レターを書いていただき、心より感謝申し上げます。

 骨折の方は、少しずつよくなっていますが、無理をすると必ず翌朝、足に痛みが出ます。からだはほんとうに正直です。意識は幻想や思い込みや期待や願望を持ちますが、それゆえに正確な判断を誤りますが、からだは極めてリアルです。そのまま反応します。メカニズムであり、化学反応です。生半可な精神力は、からだには毒です。

 医者は、ギブスを外して1ヶ月は松葉杖を突くようにと言っていましたが、2週間で、ギブスをセーヌに流してしまいました。自己流でリハビリを始めましたが、これがからだを発見し、確認し、自分の思い込みを訂正させられるいい機会となっています。からだのリアルに、意識のバーチャル・リアルが跳ね返され、フィードバックされ、修正させられるさまを、驚きと清清しい思いで体験しています。

 ギブスを外した1週間後に、松葉杖を突いて、一人で箱根に行きました。「平和の結集」の集いに参加したのですが、行きも帰りも一人で遠出をし、すごい人ごみの中で大変な思いをして、疲れ切って歩いたことが、夢のような不思議な体験となりました。「俺はとんま天狗のように、あほうだなあ」などと思いながら、真っ暗になった箱根の山を松葉杖で下り、箱根登山鉄道に乗り込みました。でも、そんな時、なぜか嬉しくてたまらないのでした。とても足が痛くて大変なのに、嬉しくて、笑い出しそうで、あほらしくて。何とも言えず、滑稽で、愉快でした。

 わたしたちは、「足の裏で憲法第9条を考える会」という平和を求める集まりをしていますが、骨折の体験で、どれほど「足の裏」が大切か、身に沁みてよくわかりました。足の裏が滑らかに動かなければスムーズな歩行は絶対に出来ません。そして足の裏は無理がききません。とてもデリケートなのです。こんなに微妙で繊細なのか。頭よりも足の裏の方が繊細微妙ではないか、と驚きを隠せません。頭は間違いやすいですが、足の裏は間違うことはありません。だから、「足の裏で憲法第9条」を受肉しなければ、決して真の平和などやって来ないでしょう。

 さて、拙著『呪殺・魔境論』(集英社)について、コメントいただき、ありがとうございます。この本は、今のところ、わたしの最初の論文集『神界のフィールドワーク』と同じくらい反響があるようです。それはとても嬉しいことですが、同時に、襟をたださずにはいられなくなります。

 というのも、オウム真理教事件や酒鬼薔薇聖斗事件はまだまだ生々しい事件の痛みを抱え、未解決のまま社会の中に投げ出されており、さまざまな関係者が現存しているからです。例えば、本の中で、わたしがこれまで高く評価してきて親交のある宗教学者の中沢新一さんや、作家で評論家で神秘思想研究かでもある荒俣宏さんに対する厳しい論及をしたところもあり、避けて通ることができなかったとはいえ、わたし自身も無傷ではありえませんでした。書くことは、自分を曝け出すことでもあり、また命懸けでもあります。切れば血が出ます。

 左膝を骨折して1ヶ月動けなかった間、この本のテーマ性が持つ衝撃について、生半可なことでは関われなかったのだ、と改めて思ったものです。本を出したから骨折したと短絡的なことは思いませんが、生まれて初めて骨折して体が動かず、赤ちゃんのように寝ているだけという生活をしながら、命と引き換えに言葉を紡ぎ出しているのだという緊張感を改めて感じていました。

 わたしが言葉を書き始めたのは、17歳の高校3年生の時からです。九州1週自転車旅行して、青島に立ち寄り、その時の青島や日南海岸の場の衝撃が、徳島に帰って詩となって噴出したのが始まりで、それは阿蘇山か桜島の噴火のように止めることの出来ない噴出でした。その最初に言葉が出て来た時のテンションを思い出しました。どうしようもない恥ずかしさと、しかし止めようのない噴出が思いっきりぶつかって、わが身とわが心を粉砕していくような。

 わたしは、35歳頃に魔術や呪術に対する関心を失ってしまいました。というより、「魔」の体験以来、むしろ「魔抜け=間抜け」になることを目指してきたのです。以来、今日に到るも、「いい加減・あほう・バカ・愚者・ユーモア・脱力」などが、わたしの課題になってきています。「一日一馬鹿運動」などというのも、そうした方向の運動ですが、これまたなかなか難しいものなのです。

 「魔」を超えてゆくためには、智慧だけでなく、「まぬけ」な感性が必要だと思っています。「賢者は愚者を越えることが出来ない」という逆説的な金言をかみしめています。「愚者は賢者を内包し、解体し、さらなる変容に導く」という錬金術的なプロセス。

 そうしたわたしの道のプロセスにおいて、「多様性、寛容、他者性」は、キーワードとなる言葉です。今日、わたしは國學院大學の倫理学の授業で、「神道倫理」について話をし、「神道倫理としてこれまで、①まこと(誠・真言・真事・真殊)、②清明正直(清く明るく正しく直く)などが言われてきたが、わたしの神道倫理は、『面白、楽し、豊かさ』であり、それは多様性・寛容・共在・八百万の倫理思想である」などと話しました。

 「面白」とは、神の光によって、面=顔が白くなり、喜びに満ちて光り輝くこと。「楽し」とは、「手伸し(たのし)」とばかりに自然に手が伸びて振りが出、踊りが始まること。神聖身体と神聖舞踊。生命多様性の豊かさの中に創造が展出していくこと。

 こうした方向とは一見矛盾するようですが、わたしは昔から暗いもの(昏いもの)が好きで、影や悪や犯罪に強烈な関心を抱いてきました。なぜ、この世に「悪」などというものが存在するのか。「悪」とは何か。「暗い」とはどういうことか。「悪」のメタファーになぜ「闇」や「暗黒」が用いられるのか。犯罪を犯す少年の「心の闇」などと。「闇」は「面白」の対極である。「闇」が存在するから「光」と「面白」があるのではないか。すべては「闇」の中にあるのでは・・・・・・。

 「リトル・グノーシス」・・・・・・。宮沢賢治、隠し念仏・・・・・・。闇の隠し念仏と光りの法華経。宮沢賢治の光と影はこの対極的なダイナミズムと緊張の中に生まれたのだ・・・・・・。

 何がなんだか、支離滅裂になってきましたが、多様性を担保する思想と社会が必要だということです。わたしはこの夏以来、ジョルジュ・バタイユに改めて惚れ直しました。おもろいですね、この人は。とても変な人です。それでいて、たいへんまとも。慧眼。
 現代にバタイユみたいな思想家がいないのは、さびしいかぎりです。ではまた次の満月まで。ごきげんよう。

2004年 10月6日 鎌田東二拝

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