2004/6 満月 - Moonsault Space
![]() またしても、お約束の期日をすぎてしまいましたね。 昨夜は満月、今日は満月の日を一日過ぎてすでに月が欠け始めています。月は近日点付近を通過中で、地球にぐっと近い位置にいますから、今回の満月はとりわけ影響力が大きかったのかもしれませんね。 早いもので今年はもう半分すぎてしまいました。僕のほうは無事に引越しも終わって落ち着き、スポーツクラブにも通い始めて心機一転した生活サイクルに入っています。ちょっと家を移しただけで、こんなにも街の風景が変化して見えるものなのですね。いかに僕たちが、一種の「惰性」のなかで生きているのかを実感させられます。 ニュースでは、小学生の女の子が、やはり小学生の少女をカッターナイフで切り殺すというまるでホラーマンガや映画のようなこと、あるいは民話の世界のようなことが現実に起こったという話を伝えてきています。 どこまで根拠のある話なのかわかりませんが、精神医学の小田晋先生がテレビで、「若者の性犯罪の数そのものは減っているが、いわゆる異常な犯罪は増加している」とコメントされているのを見たばかり。僕は案外、統計のマジックにはかからないタイプなので、その発言の根拠がどこにあるのか、にわかにはうけいれられないのですが(大体、何をもって「異常な」というのでしょうか)、しかし、このニュースを聞いたときには、もはやネットや社会だけのせいにするのは難しいと直感しました。 ここには、合理的な因果論では説明のできないような、「元型」あるいは「魔」、「霊」とでも呼ばなければならないようなものが働いているように感じるのです。近代的な学問は、こうしたモノを排除して自らを成立させようとしてきたわけですが、(そう、カリスマ論ですら、そうしたところからみると合理化されてしまっているように思えます)もはやそんなことをいってはいられないような気がします。 学問を学問として成立させるための禁欲も重要だとは思うのですが、しかし、現実レベルでこうしたことが起こってきた場合には、お母さんがたも、先生も、そして、官僚たちも、そしてもちろん、学問をする人間も何かを発言しなければならないのではありませんか。 そんなことを考えているときに、書店で手に取ったムック本『ジャイロス』1号、「特集 一神教の功罪」のなかでの先生の神道論を共感しながら読ませていただきました。日ごろから先生がおっしゃっていることなので、目新しいことはさほどないのですが、しかし短い文章で手際よくまとまっていたので、とてもすっきりとしました。 柳田・折口のような学問のスタイルが、若いころの僕にはまったく理解できず、(一種の神学なのか、文学なのか、ともかく、描写的な記述ではなく新しい概念を提唱してくるところでしょうか)近寄りがたかったのですが美意識のもとに全うな生き方を模索するための学問としての果敢な挑戦と受け取れば、それがとても果敢な試みだったということはわかります。 そんなことを考えていたとき、たまたま昨日購入した社会学の論文・インタビュー集で非常に面白いものを見つけました。山之内靖対談集『再魔術化する世界 総力戦・〈帝国〉・グローバリゼーション』(御茶ノ水書房)です。もともとあまり社会学の本は読まないのですが、この本については、そのタイトルに魅かれて買いました。 再魔術化といえば、僕がまっさきに頭に思い浮かべるのはモリス・バーマンであり、最近のトマス・ムーアです。バーマンはその著書『デカルトからベイトソンへ』のなかで、確かこんなふうな趣旨を語っていました。17世紀に起こった科学革命と世俗化の波は、実は世界にかかっていた美しい魔法が解けてゆくプロセスであった。ウエーバーのいう『脱呪術化』というのは、近代化ではあるけれど、世界と人間との間のつながりを解消し、自然を対象化して操作しようとするプロセスであった。しかし、再び、世界のなかに美しい魔法をとりもどすことが必要だ。 主観-客観を分けて二元対立を近代的に完成させたのがデカルトだとすれば、ベイトソンの哲学の中に生態としての、生けるシステムとしての世界に魔法を取り戻すプロセスの萌芽をみるのがバーマンの視点でした。これは、裏返された進歩史観であり、ロマン主義的な近代化解釈であるとは思います。 心理学者ムーアの著書Re-Enchantment of Everyday Lifeも同じような視点から世界に魔法と魂を取り戻そうとする試みです。もっとも、臨床心理家であるムーアのその手つきは、もっとささやかなところで、もっと詩的なスタイルで動いていますが。 社会学者のこの対談集は、より現実世界を緻密に分析しているという点で、もちろん、上の二冊とは違うでしょう。まだ読み始めたばかりなので、なんともいえないのですが、当然、ここでいう『再魔術化』は、上の二冊や僕のような立場でいうものとはちがっていて、否定的なニュアンスをたぶんに含むものであろうことは予想がつきます。おそらく、合理化され、自律化していった欲望消費マシンとしての経済システムが今度はそれ自体が呪術的なものとしてうごめき始める、ということなんだと思うのです。 僕の理解はまだ直観なのでまったく的はずれかもしれませんが、もしそういう理解であれば、同じ「再魔術化」という言葉を正反対の方向で使いながら、同じような近代-現代批判をしていることになります。『功利的・合理的』テクノロジーの自律化を魔術と呼ぶ反面、山之内氏は同時に、このようなことを冒頭で述べていらっしゃいます。 「つまり、この社会システムがどんなに完璧なかたちで、さまざまな逸脱してゆく要素をシステムの中に内在化させてゆくとしても内在化の過程が進行すればするほど、それは〈社会システム〉と社会システムと循環をなす〈自然システム〉との間に、和解不能なコンフリクトを生んでゆくだろう。コンフリクトといった場合、一般には人間の社会関係のなかで、言語をもつ人間が相互に取り交わすコミュニケーションの過程でのコンフリクトを社会理論のなかで考えてきたわけですが、我々はもうすでにそうしたレヴェルを超えた次元に突入しています。というのも、我々は、言語を持たない自然生命体のシステムについては、実はほとんど何も解明されていないといっていいくらいのレヴェルにとどまっている。現代自然科学は、個体として取り出された鉱物や細菌、あるいは個体としての身体のメカニズムについては大変なところまで解明の手を届かせてきました。しかし、生命系としての自然システム全体については「暗黒のなかに置かれている」といっていい状態にとどまっていると思います。」 ここでいわれている感覚こそ、先生が〈畏怖の宗教〉として取り出された神道の感覚ではないでしょうか。やみくもに生命や自然を神秘化するのはどうかとは思いますが、これまでの還元主義的、操作主義的な方法とは異なる、つつましやかな科学の感覚が出現しているのではないか、そんな気がしています。そして、それは、ファシズムにおいて芸術が利用されたこととつながるような、ユングがナチズムとある種かかわりがあるとされているような危険性もはらむことを自覚しつつ、僕たちのいう意味での世界の「再魔術化」、あるいは〈魂〉〈霊〉の回復を考えてゆかねばならない、そんな気がしています。 目を覆いたくなるような事件も勃発してはいますが、このような本が出現していることに、僕は希望をもっています。 それでは。 重ねて、遅れてしまったこと、お詫びします。 敬具 2004年6月4日 鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま 昨夜はとても美しい満月でしたね。 京都から大宮まで帰ってきて、夜の12時ごろ、大宮駅から外に出ると、夜空に満月がぽっかりと浮んでいて、思わず佇んで合掌してしまいました。本当に月は鎮魂のメディアだと思います。 とはいえ、昨今、大変不順な天候が続きますね。暑かったり、寒かったり。5月には北海道で吹雪が襲ってきたようです。気象も社会も変動態に入っているようです。乱世です、まさに。長崎県佐世保の小学6年生の少女の殺害事件も、酒鬼薔薇聖斗事件の次の段階の「乱」の気配を感じさせ、暗鬱な気持ちになります。報道が過熱すればするほど人心は混乱し荒廃していくような悪循環のあがき、のような。小田晋氏の発言のことはよく知りませんが、彼の発言には怒りを感じることがしばしばあります。精神科医の暴力性といったことを考えさせられます。「精神鑑定」というのも、何なんでしょうね。医学や生命倫理を学びながら、とてつもない矛盾と袋小路に陥っている現代の病理を感じてしまいます。 最近、高橋和巳やドストエフスキーを読み返していたので、犯罪者の心理と行動を考えさせられる毎日でした。ドストエフスキーの『罪と罰』は読み返しても、名作で、古びていないですね。「一たい人間は何を最も恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ……」。慧眼ですね、彼は。 今の若者の心理と行動にも充分通じるものがあります。人間の深層を描くという点では、ドストエフスキーはやはり偉大な作家だと思います。 こんな時代の「乱世」に、わたしも乱世気分というわけではないのですが、ひょんなことからこの4月と5月に2回も個展を開催することになりました。それぞれ2週間ずつも。わたしにとっては、青天の霹靂というか、瓢箪から駒というか、驚天動地というか。ともかくも、個展を開催した本人が一番驚き、かつ呆れているのですから、人生、何が起るか本当にわかりませんね。まさに、「乱世」ですわ。 個展なんて、もちろん、生れて初めての経験ですが、やってみると、何かくすぐったいような、妙にリアリティのない、ふわふわした変な気持ですね。けっして、悪い気分ではありません。かといって、「やったあー!」という感じでもありません。とにかく、変な気持です。 さて、その個展は、妖怪展が開催されなくなったことによって生れてきたという数奇な運命を持っています。少しこの経緯をお話しましょう。 この4月に栃木県足利市立美術館で「妖精展」が開催されることになっていて、わたしはそこで「妖精と妖怪」というテーマで講演をすることに決まっていました。ところが、開催間近になって展示物を仲介する美術業者が倒産したことで、この企画展がぽしゃってしまいました。 そんな折、足利市立美術館のキューレーターで詩人の江尻さんの親しい友人でもある、群馬県館林市のスペースUの店主のオバナタカユキさんが、「鎌田さん、うちで個展をしてみませんか?」と誘ってくれたのです。「ええっ!」。 とにかく、子供の頃から美術が一番嫌いで、画を描いたり、造形物を造ったりすることが大の苦手で、体育と音楽が大好きであったわたしは、「そんなこと、できるわけないじゃん」と内心思ったのですが、「最終日に神道ソングのライブをやりませんか?」という一言にコロリと転びバテレンになってしまったのでした。 そして、「中外日報」の連載「宗教と文学」の挿絵を描いてくれている画家で那須の中学校の美術教師でもある鈴木正一さんに絵を描いてもらい、わたしの詩・短歌・俳句15点に鈴木さんの描いた画を付けて額装してもらいました。これがおもろい試みでした。 わたし自身の絵2点「宇蟲」と「宇獣」(ともに宇宙シリーズ)も出品しました。これは、1年半前横尾龍彦先生の「水が描く、土が描く、風が描く」という瞑想絵画のワークショップで描いた画なのですが、東京自由大学のバザーで買い手がついて、2点ともに売れていったのです。初めて描いた絵が売れたのですから、驚きでしたが、嬉しい気持ちがしたのも事実です。とても集中して初めて絵を描くことがこんなに面白いのかと思えた時間でしたから。 ともあれ、そんなこんなで、4月16日から25日まで、10日間、「神道と芸術」という個展を館林で開催し、最終日に2時間あまりのライブを行いました。ギャラリー始まって以来という動員力(といっても40名弱でしたが、館林まで来てくれた人には本当に頭が下がりました)とのことでした。そこで展示された絵も4点も買い手がついたのですよ。実に不思議な気持ちでした。 そうこうしているうちに、本務校の京都造形芸術大学東京サテライトキャンパスの1階エントランスルームを展示スペースにして教職員や学生の作品展を行なっていくということになり、その第1号にわたしの作品が選ばれ(?)、5月17日から30日まで、「鎌田東二の世界」という個展が開かれたのでした。とんとん拍子とはこのことですが、ホント、瓢箪から駒、青天の霹靂、でしたね。 個展をやってみて、いろいろともっと「おもろい」ことができるんやないか、と思い始めました。わたしは今でも美術作品を作ることは大の苦手で集中力がなかなか出てきませんが、しかし、前から書をやってみたいと思っていたので、これから本格的に書に取り組んでみたいと思っています。まずは、大宮駅前のそごうで、書道道具一式を買ってきましたが、書道の道具がこんなに高いとは知りませんでした。実にお金がかかるものなのですねえ。 ところで、ブータンから帰ってきて、大学の通信教育部のスクーリング授業の「地域文化演習」で伊勢に行きました。「伊勢の地と知――サルタヒコとアマテラスとトヨウケと本居宣長」と題する授業で、ねらいは次のようなものです。 【伊勢は古来、「常世の国の重波寄せる国」を呼ばれ、常世に近接した聖なる土地でした。そこには、古くから、太陽神にして皇室の祖先神・天照大神をお祀りする内宮と、食物神としての古神・豊受大神をお祀りする外宮が建てられ、20年に一度行われる式年遷宮を始め、古式に則った祭祀が伝承されてきました。 この地は、しかし、本来は、大国主神と並ぶ国つ神・猿田彦大神のゆかりの地でした。猿田彦大神の子孫の大田命がこの地を倭姫に譲り、内宮が建立されるに至ったという伝承もあります。かくて、この地にはたくさんの神社が建立され、出雲大社や宇佐八幡宮と並ぶ日本有数の聖地として栄えてきた聖なる場所です。また、伊勢の近くの松阪は、国学者の本居宣長が生まれ、生涯を過ごした地です。 本地域文化演習では、都を霊的に支える日本の宗教文化の拠点としての伊勢の宗教と芸術文化の諸相を、実際に神社仏閣を巡りながら体験学習していきます。直接、神主さんのお話をうかがいながら。】 かくなる次第で、猿田彦神社宮司の宇治土公貞明氏に猿田彦大神や伊勢のことを話をしていただいたり、伊勢神宮の内宮・外宮をお参りしたり、摂末社の荒祭宮や土宮や風宮、また二見興玉神社で4時40分に日の出を拝んだり、各自フィールドワークをして成果発表したりと、刺激的な2日間を過ごしました。 わたしは、毎年10月に猿田彦神社の「おひらきまつり」というおもろい祭りのコーディネイトをしているので、伊勢には毎年一度は参ります。それに今回は二見のか海岸の潮香苑という旅館に宿泊できて、潮の香りを嗅いだり、禊をすることができたりと、わたしにとっては大変実りのあるスクーリング授業でした。「おひらきまつり」について詳しくは、「猿田彦大神フォーラム」のホームページをご覧ください。 今回の最大の収穫は、内宮の別宮の倭姫宮を参拝できたことです。倭姫宮の参道に入っていった途端になぜか有難くて涙が出てきました。森がとても優しく、かつ力強く、そして奥が深かったのです。6月には、この授業の第2弾で出雲大社に参りますが、これまたどのような再発見があるか、実に楽しみです。 さて、6月19日から21日まで行なわれる「World Peace & Prayer Day」が近づいてきました。この「世界平和と祈りの日」の開催を呼びかけたラコタ族のチーフのアーボル・ルッキングホースさんは、次のようなメッセージを寄せています。 <チーフ・アーボル・ルッキングホースからのメッセージ> 地球上に存在する様々な民のくにぐには、それぞれのかたちで、偉大なる聖霊に感謝を捧げ、母なる大地の上を歩む術を知っていました。しかし、文明化・西洋化が進むと共に人々はその古くからの教えを忘れ、スピリチュアルな道を歩むことをやめてしまいました。あげくには、戦争や環境破壊を通じて人類は、地球上で母なる大地を破壊する唯一の種となってしまったのです。 私が、World Peace & Prayer Dayを通じて伝えようとしていることは、世界中の人々が、太古に知っていたはずの、母なる大地を敬い、あらゆる存在との調和の中に生きるための精神性と術を取り戻そうということです。 World Peace & Prayer Day せかいへいわといのりの日は、太古の教えに向けて再び私たちの心を開くための、癒しの儀式でもあります。 いま、現代人はあまりにも多くの痛みと恐怖をかかえて生きています。私たちの生命を支えてくれる食べ物さえも争いの対象となり、不自然な食物の摂取によって人々の心身のバランスが乱れています。太古の人々が食べていたような自然な食物をとることは今や容易ではなくなってしまいました。私たちが不自然な食物を食べるのをやめ、自然なものを食べるようになれば、戦いもなくなり、人々も平和になることでしょう。聖なる教えにしたがって食べ物を食べれば、人々は精神性についてもより深い理解が得られることでしょう。そしてウィルスや、自殺、怒りや痛みといったこともなくなるでしょう。 World Peace & Prayer Dayは、もともと「涙を拭く儀式 - 聖なる輪の修復」と名付けられた我々の祖先の辿った苦難の地、ウンデッド・ニーまでの馬の行進から始まりました。これは良いエネルギーを招き入れ、人々を癒すための儀式でもありました。 度重なる戦争の結果、世界には沢山の孤児がうまれ、彼らのために孤児院ができました。我々の言葉には孤児院という言葉はありません。子供達はみんなが育ててきたからです。孤児達のためにも癒しの儀式をしなくてはなりません。 私たちはあまりにも忙しくて、創造主のために祈る時間さえありません。しかし、創造主のため、癒しのための時間を自らつくらねばなりません。もしそれができれば、人々は自然に心の平和を見いだすことができるでしょう。 ウンデッド・ニーまでの行進はそれが目的でした。この癒しは世界中で起きなくてはいけないのです。 世界には生命の聖なる道を尊重しない人々がいます。そのため人類は分岐点に来てしまいました。聖なる教えにもどらなければ、ものごとはますます悪い方向に進んでゆくことでしょう。太古の人々は互いの違いを認め、それぞれの領域を尊重していました。現代にはその敬意が欠けています。そのため、子供たちさえも暴力的になってきているのです。人々が、何事に対しても自己の価値観だけで判断してはならないということを理解すれば、そこには癒しがもたらされるでしょう。しかしこのことが理解されるためにはまだまだ沢山の努力とエネルギーが必要なのです。 <World Peace & Prayer Dayのセレモニーについて> World Peace & Prayer Dayは、今まで人々を分断してきた宗教や民族といった違いを乗り越えた儀式です。儀式では様々な宗教的指導者を含む全ての人がひとつの輪になります。その輪には始まりもなく、終わりもありません。この儀式ではあくまでも中心の火にそれぞれの祈りのこもったタバコを捧げるという形をとります。儀式は中心の火をおこすところから始まり、火が始まれば、指導者達から順に聖なるタバコを火に捧げてゆきます。捧げるときは、無言でただタバコを火に捧げるだけです。異なる宗派の儀式はここには持ち込みません。 この中心の火はとても神聖なものです。地球上の全ての民には、本来聖なる火というものがあったはずです。聖なる火には生命のエネルギーがこもっています。 私たちはこの火を讚えます。母なる大地が聖霊であり、神聖であるということを理解することは、いまでは私の暮らしている土地ですらとても難しいことです。 しかし人々がそのことに気づくまで、エネルギーの転換は起こらないのです。 創造主はそれぞれの民に伝統と教えを与えてくれました。その教えをもう一度ふりかえり、母なる大地を讃え敬う生き方を思い出しましょう。私はみなさんに我々ラコタ族のように振る舞ってもらおうとしているのではありません。 私たちは互いの文化や教えを尊重しあわねばならないのです。 宗教や思想の違いから、World Peace & Prayer Dayに参加したくないというのであれば、自分の納得のいくやり方で、自分の場所で祈ってもらえばいいのです。 猜疑心、怒りなどのネガティブなエネルギーを、World Peace & Prayer Dayには持ち込まないでください。 もし互いへのネガティブな感情があったとしても、一日を祈りで始め、握手をせねばなりません。 私が伝えようとしていることは、すべては聖霊ごとであるということです。私たちは生命のエネルギーを尊重することを学ばねばならないのです。 聖なるホワイト・バッファロー・パイプ、19代目の守り人 チーフ・アーボル・ルッキングホース この催しは、静岡県富士宮市朝霧アリーナと野外活動センターおよびその周辺で行われますが、マナーとルールに従って参加してくだされば、どなたでも無料で参加できます。ただし、今400万円あまり財政が不足しているので、いかほどでも志を寄付してくだされば関係者一同大いに感謝、です。 プログラムは、「大地と共生の哲学」国際シンポジウム、先住民からのメッセージ、大地と共生する生活術の提案、大地を讃える音楽と踊り、世界平和と祈りのウォーク、ストーリーテリング、祈り、などです。詳しくは、ホームページをご覧ください。 わたしは、この中の国際シンポジウムと先住民からのメッセージの部門の司会進行を務めます。シンポジウムには、アーボルさんのほか、島薗進(東京大学教授、日本宗教学会会長、宗教学者)、高良勉(沖縄の詩人)、結城幸司(アイヌアートプロジェクト代表)諸氏がシンポジストとして参加されます。実りのある会となるように心して取り組みたいと思います。祈りとユーモアをもって。 ぜひ、一人でも多くの人の参加と、平和を祈り願う心の深まりがもたらされますよう。 事務局の海老原よしえさん、本出みささん、岡野弘幹さん、ハルさんを始め、本当にたくさんの人が関わり、一所懸命に心と力を注いでいます。すばらしいムーブメントとウエーブとヴァイブレーションが生れますよう。十六夜の夜に心から祈ります。 神ながらたまちはへませ! ミタクエ・オヤシン! ホジョナー! 2004年6月4日 鎌田東二拝 |