2002/10 満月 - Moonsault Space
![]() お手紙ありがとうございました。イギリスから戻ってきてすぐさま、年末の原稿ラッシュに巻き込まれています。あののんびりした時間はなんだったんだろうか、と。さて、前回の先生のお手紙は本当に心に染み入りました。そして、さまざまなことを考えさせられました。恥ずかしながら、最近まで僕はモノカルチャーのなかで生きてきたように思います。離婚したとはいえ、両親には物心両面の意味で何不自由なく育てられ、高い学歴を与えていただき、周囲の友人たちもそういう意味では成功者であったり、教養があったり、面白い人たちなのです。 ここ数年になってやっと、僕とは違う世界の若者達と交流するようになり、そのおかげで、いわゆる風俗で働くような女の子たちとも話しをするきっかけが与えられました。幸いなことに若者達は僕のようなみょうちくりんな生き方をしている大人がいるというのを面白がって、ときどき事務所に遊びにくるようにもなってくれました。そんな彼らにすら僕は驚かされることも何度もあるのですが、それでも僕の周囲の「世界」はなんと恵まれたものであることでしょう。そうでない世界があり、今も進行中であるということは頭ではわかっています。どのようにしたらいいのか、ということが思い浮かびません。経済システムのこと、また持続可能な社会のこと、さらに貨幣のもつ虚構性(今話題の地域通貨はそのことを鋭く突いていますね)などなど、一気にリアリテイとして迫ってきました。 どうしていいのかわからない、といっているだけではことはすすまないので、できる範囲のなかから、まずは僕の意識改革をはじめてゆかねばならないということも強く感じます。そこで、先生のおっしゃる、宗教を超えた霊性といいますか、人格の力を深く考えさせられました。宗教、いや、あらゆる『共同体』を作るシステムがある種の排他性をもつことは避けることがとても難しいと思います。この前から占星術モデルで考えていたのですが、実はこれは太陽と月のシンボルのネガテイブな表れなのですよね、占星術的には。 太陽は本人が本人であろうとする衝動を示す根本的なエネルギーです。自分がほかの誰でもない、自分である、というこの謎。自我ともよべない、たましいの一貫性や連続性を示すのが占星術では太陽のシンボルです。西洋ではこれは一貫して英雄の姿で描かれてきました。ドラゴンを退治して姫を獲得するというのが一般的ではありますが、このほかにもイエスのように自らを放棄して英雄になるというスタイルもあります。しかし、このような高度な表れにはなかなかいたりません。自分が自分である、インデイヴイジュアルであること(分割不可能であること)は、まったくもって個別性の現れであり、太陽を生きるときには人は孤独をひきうけなければならない、というのが、心理占星学の知見のひとつです。 そこで人は共同体と同一化しようとするのですが(これは心理占星術では月です)、それは差異を必然的に要求します。男は女とは違うということを意識して自我を形成してゆくように、外部に敵なり他者を生み出しつつ、自然や存在の連続性に亀裂を生み出しつつ、自我は自我として成長してゆきます。これは、ときに敵を作り出し、自我のエージェントとしての火星(戦いの神)が動き出すのです。宗教の名前を超えた深い他者への共感の力などは、太陽を深く深く生きるときに生まれてくるのだと思います。こうした境地にはまだまだ程遠く、毎日を愚痴ばかりですごしている僕ですが、先生とのお手紙のやり取りを通して、少しづつでもそんな意識の深みを体得してゆきたいと考えています。 さて、僕のほうはまたたくさんの企画を動かしています。たったいま、妖怪画伯の水木しげる先生の絵をモチーフにして僕が解説・監修をつけた新しいタロット、『万国百怪封印之箱匣』(集英社)が出来上がって届けていただきました。水木先生の世界の妖怪画をタロットにみたてて78枚の妖怪の世界をカードにしたもので、世界にも珍しいコレクションアイテムになったのではないかと思っています。たとえば、0のフールが「ねずみ男」だったり、謎につつまれた女教皇が「スフィンクス」だったりします。吊られた男はマレーシアでいつもジャングルのなかでぶらさがっている「さかさ」。裏模様は、目玉オヤジであります。CDロム、画集、78枚のカード、京極夏彦さん装丁のボックス入りの豪華キットで、きっと海外のタロット・漫画ファンにも受ける内容になっているのではないでしょうか。 企画にあたって水木先生とお話させていただくことができたのですが、先生は世界で実際に妖怪を何度もごらんになったり体験されているのだとおっしゃいます。ごくごくあたりまえに、妖怪のような精霊の世界を体感しておられるのですよね。しかも、それをうまいぐあいにこわがりつつ、恐れつつも面白がっておられる。こういう当たり前だけれどシンプルな感覚を案外僕たちも深いところではもっているのだと思うのです。それを知的なタイプになればなるほどにどっかで置き忘れてしまう。あえて自然に回帰せよ、というようなことをいうのではなくても、あたりまえに生きることができるというのはとても大事なことだと思います。八百万の神々の世界はまさにそういうことですものね。妖精の世界とも通じている。 ところで、最近天文学・占星術の世界ではまた面白いことがありました。新聞でも大きく取り上げられたのでご存知かもしれませんが、冥王星の外側に新しい惑星が発見されたかも、というのです。ふたを開けてみると、冥王星のはるか外側をめぐるカイパーベルト(太陽系の生まれるときにあった宇宙のチリのようなもの。彗星の巣です)から飛来した天体で、たくさんあるもののひとつなのですが、これまでのカイパーベルト天体の中では最大。その名をクワーオアーと暫定的に名付けられました。クワーオアーは、ロスアンジェルス地域のネイティブ・アメリカ人の方々の創世神話に登場する神で、天の神や海の神を作り出した、非人格的な力のことだそうです。この祖神は、天空の神などを「歌と踊りによってつくりだした」のだと伝えられています。宇宙の設計者たるデミウルゴスだとか、ロゴスによって宇宙を創りあげた神とはなんと対照的なことでしょう。歌と踊りが最初の神々をつくりだす。宇宙には、世界には、陽気な歌と踊りの残響が今も響いている。人々がつながりをもてる(コミュニタス、とヴィクター・ターナーならいうでしょう)祭りは、宇宙の最初に由来する。先生のおっしゃるワザオギは、クワーオアーとどこかでシンクロしているような気がします。 これからはハロウインの季節。向こうの世界がこちらへと近づいてきます。ますますキナ臭さが増すこの世界の中で、暴力に対向する魔法として、見えない妖精を呼び起こす踊りと歌の力を、僕たちは本当に必要としているのかもしれません。クワーオアーはそんなことを教えているようです。それでは。よいハロウインをお迎えください。 2002年10月18日 鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま ハロウィーンとは、妖精と妖怪の活性化する季節ですね。10月31日の夜に行われるこの祭りは、もともと古代ケルト人のサムハイン祭が起源でした。死の神サムハインを称え、新しい年と冬を迎えるこの祭りには、日本のお盆のように、死者の魂が各家々に帰ってくると信じられていたようです。この夜、子どもたちは怪物や魔女に仮装して隣近所を回り、「ごちそうしないといたずらするぞ」とチョコレートやケーキやキャンディをせびって歩きます。それは先祖の里帰りでもあるのでしょうか。それはまた、一種の妖怪・妖精祭りともいえます。 鏡さん、最近とみに、妖精や妖怪があちこちで出没していると思いませんか。水木しげるさんが会長を務めている「世界妖怪会議」は大盛況だし、わたしの友人たちは「妖怪プロジェクト」という面白い活動をしているし、国際日本文化研究センターの小松和彦教授が開設した「妖怪」ホームページには毎日1万件(だったかな?)のヒット数があって関係者一同が驚いているようだし、来月の11月27日には北沢タウンホールで井村君江先生が主宰する「フェアリー協会」の「妖精への誘いの夕べ――いま、なぜ妖精なのか――妖精と神と星への旅」というイベントが行われることになっているし。そこで、井村先生はズバリ、「妖精の季節到来」と題した基調講演を行うことだし。まさに、妖怪・妖精大活躍の季節です。 それにあわせて、われら妖怪・妖精族も大忙しですね。鏡さんは小さい頃に山姥のような幽霊(?)を見、わたしはわたしで子どもの頃に何度も「鬼」を見ているので、言ってみれば、妖精や妖怪の眷属のようなものですね。だから、あなたが心理占星術研究をし、わたしが宗教や神話の研究をしていて、これらの催しで鉢合わせをしたりするのも、運命といえば運命、業といえば業のようなものです。霊的万有引力の法則。オー・マイ・ゴブリン! 時あたかも「神無月」の満月。出雲ではその反対に、「神在月」のこの時。これからの一年はどうなるのか、神さまの会議が開かれ、一年の計が練られているといいます。その神集いの神さま会議ではいったいどのようなことが話されているのでしょうか。 その神さま会議はともかく、今世界全体が、アメリカのイラク攻撃への準備、北朝鮮の拉致問題と核開発疑惑問題、バリ島やフィリピンでのテロ事件、日本経済の低迷などなど、ある種の「妖怪的事態」に直面しているといえます。良くも悪しくも、妖怪現象が現実となっているとでもいいましょうか。ここ数年、わたしは日本が熱帯化していると主張してきましたが、1週間ほど前の10月の雷現象にはホントに驚きましたね。これは真夏によく見られる雷の発生と同じではないですか。それが10月の空をにぎわしているのだから。ウーン、とうなっちゃいました。どうなっちまったんだろう、この日本列島は、地球世界は! 完全に気象異常と思わずにはいられません。 とにもかくにも、こういう「季節」をわたしたちは生きているのだ、生き抜いていくのだということに自覚的でなければならないと強く思います。「最大のピンチは最大のチャンス」というのはわたしの年来の人生哲学ですが、それにしてもこのピンチはただ事ではないと思えます。一瞬でも気をゆるしていると一挙に奈落の底に突き落とされるかもしれないような時、ケルト系の詩人アルチュール・ランボーのいう「地獄の季節」かもしれません、21世紀初頭の今は。そのような時であればこそ、ランボーが言うように、わたしたちは「感覚器官の筋の通った乱用」によって新たに世界を「透視」する「術」を身につけねば生き抜いていけないのではないかと思うのです。それには、まったく深い河を飛び越す大胆さや行動への勇気と、その反面、心を静かにして聖なる沈黙に耳を澄ます瞑想・鎮魂が必要だと思います。降りかかって来るものを無化し浄化するワザが必要なのです。真の平和をみちびきだすワザオギが。しきりにそう思います。アート・オブ・ピース、鎮魂アートが。 鏡さん、わたしは最近、思いがけない体験をしました。それは、今まで自発的に一度も絵を描いたことなどないわたしが生れて初めて自発的に絵を描いたという体験です。それはわたしにとっては革命的な事件でした。わたしは芸術の中でも絵画や彫刻ほど不得意なものはなく、筆を持つとすぐさま集中力が切れて、歌を歌いたくなるか、遊びに行きたくなるというありさまでした。そんなわたしが、10月13日と14日に夢中になって2日間も絵を描きつづけたのです。そして信じがたいことですが、未だにまだ絵を描きつづけたいという衝動がこころとからだの深いところで渦巻いているのです。 実は、その日、東京自由大学のアート&ボディワーク合宿が学長の横尾龍彦氏の秩父アトリエで行われ、参加したのです。そこではまず、音楽家の奈良裕司さんと瞑想絵画実験工房の横尾龍彦さんとのコラボレーションが行われ、瞑想と音楽と絵画の協働作業が営まれました。その二人の協働作業は大変興味深くスリリングでエキサイティングなもので、その相乗作用によってアトリエにある種の創造の霊というか、創造的エネルギーが満ち、湧き、渦巻いたのです。その渦に呑み込まれてしまったのでしょうか、わたしは、横尾学長の提唱する「(わたしが描くのではなく)水が描く、風が描く、土が描く」絵画の描画法に目覚めてしまったのです。というより、より正確には、わたしは「水が描く、風が描く、土が描く」道具になったのです。 それは深く静かで安らかな体験でした。形や色がおのずと現れ出てくる瞬間に立ち会いながら、その示現に手を貸していくという時間。そのきっかけを横尾アトリエで体験し、家に帰って夢中になって絵を描きつづけました。そしてその絵に「宇蟲」という題をつけて完成させ、翌日、大宮そごうに行って額を買って入れ込み、東京自由大学に出来上がった絵を持っていって、横尾学長を始めみんなに見せたのでした。それを見て、家族も自由大学の仲間もみんなビックリ仰天。というのも、わたしは大の音楽好きではあっても、絵がキライだということは、また不得意だということはあまりにも有名な事実でしたから。 この数年、わたしは自分のことを信じなくなっていましたが、いや、信じられなくなっていましたが、――というのも、「でまかせ・でたらめ・でかせぎ」のわが3Dライフには何が起こってくるかほんとうにわからないので、これでなければいけないとか、こうだというようなことは、はっきりいって、どうでもよくなってしまったのですが――、それにしても、この絵画制作には恐れ入りました。未だに信じられません。横尾学長が提唱してきたとおり、確かに「瞑想絵画」というものがあるのだということをはっきりと実感しました。実作しました。それがどれほど完成度が高いものかどうかは別にして、わたしは絵画が、描画が「瞑想」であり「安らぎ」であることを体験してしまったのです。それが「アート・オブ・ピース」のワザオギであることを。 これまで、わたしにとっては、神道ソングを始め、各種音楽は「アート・オブ・ピース」のワザオギでした。しかし、それだけでなく、絵画・美術・工芸も同様だということに、今さらながら気づいたのです。ジョン・ケージは、第二次世界大戦中に、世界があまりに騒々しいからと、プリペアド・ピアノを使った、実に瞑想的で、美しい、聖なる静けさを持つ音楽を作りましたが、絵画においてもそのような瞑想的な聖なる静けさが充溢することをわたしは知ったのです。絵の力というものを初めて感じて、とても深い喜びに包まれました。 来る12月2日(月)から9日(月)まで、中野ゼロホール西館ギャラリーで「東京自由大学アートワーク展」を行いますが、そこにこの描画第1作の絵「宇蟲」を出品展示する予定です。その時には案内しますので、ぜひ見にきていただきたく思います。この絵を見た早稲田大学の学生の藤川潤司君は、「王蟲みたいや!」と言いましたが、そう言われればそのようにも見えます。それはまた一種の「妖怪絵画」とも言えるかもしれません。鏡さんと水木しげるさんの「妖怪タロット」にも共通するような。それとも、ハロウィーン絵画かな。 それはともかく、最近わたしは美空ひばりに凝っています。美空ひばりがこれほどすごい歌手だとは今まで知らなかったのです。つい、2,3週間前、テレビで、美空ひばりが昭和42年のヒット曲の「哀しい酒」を歌っている姿が再放送されていました。その今は亡き美空ひばりの歌声を聴いて、本当に心底聴き惚れ、深く深く、言葉では言い表せないほど深く、感動してしまったのでした。昔、宗教学者の山折哲雄さんがしきりに「美空ひばりは良い!」と言っていたのを聞いて、「美空ひばりのどこがええんや?」と不審に思い、むしろアンチ美空ひばりだった自分の「転向」に、これまた信じがたい思いをしたのでした。わたしはこれまで圧倒的な都はるみファンだったのです。15年以上も前に、「恋の光学」という題の都はるみ論というか、都はるみオマージュを書いたほどのファンでしたから。それが一気に美空ひばりまで飛んだのです。この自分の無節操な「神ながら転向」には、われながら、開いた口がふさがりませんでした。 ところで、思うのですが、美空ひばりの歌は、粒子が細かいのです。だから、聴いているうちに、聴き惚れるというか、瞑想状態に落ちて行くわけなのです。彼女はよう落としどころを知っている。真の天才やわ。その声の粒子の細やかさ、繊細さと、微妙なグラデーションにはふるえます。最近、音楽家で天才と思ったのは、ピアニストのグレン・グールドとチェリストのジャクリーヌ・デュプレの二人でしたが、その音楽の聖者(セイント)の中に美空ひばりが加わりました。わたしの魂の中で。グレン・グールドはその存在自体が音楽でした。ジャクリーヌ・デュプレはそのヴィブラートとピアニッシモが永遠の響きでした。そして美空ひばりには、その声のグラデーションと裏声の繊細さ中にに魂のかそけさと宇宙の創造が透けて見えました。 音楽の天才は、わたしに宇宙と永遠と魂を感じさせてくれます。今にも戦争がまた起こりそうなこんな夜、音楽や絵画の聖者の響きや声や色・形に耳を澄ませ、眼を研ぐことが必要ではないでしょうか。そのような「アート・オブ・ピース」のワザオギを、わたしも慌てず静かに実践したいと、心から望まずにはいられません。「藝術の秋」、「藝術」のハロウィーンを味わいたいと思います。ごきげんよう。 2002年10月19日 鎌田東二拝 |