2002/9 満月 - Moonsault Space
![]() すっかりお手紙を出すのが遅くなってしまいました。満月のときにお手紙を交わすお約束でしたのに、守れなくて申し訳ありません。海外出張のあとの事後処理やらなんやらでばたばたしておりました。お詫び申し上げます。さて、その出張なのですが、イギリスを訪ねておりました。毎年9月には英国占星術協会の年次大会が開催されることになっており、学生時代以来、ほぼ欠かさずに出席してきたのですが、ここ2年ほどはアメリカでの別の学会とスケジュールがぶつかってしまったことや例のテロの影響などで、渡英できない期間がありました。 久しぶりに訪れたイギリスはなんだか少しさまがわりしていて、驚きました。景気の良さがあるのでしょうが、ロンドンは街全体がこぎれいになっており、あちこちが改装、再開発された様子が強くなっています。ソーホーのカフェやバーもどことなくNY風だったり。おしゃれな店員が、いかにも「健康によさそうな」生ジュースを出すなんてのも多くなり、本当にロンドンなの?と。確かにヒッピーカルチャー的な雰囲気でオーガニックものを出すところは、ニールズ・ヤードなどにはあったのですが、これらは雰囲気はあるもののとてもオシャレとは言いがたいものだったのですが、こちらはビジネスマンも流行に敏感な学生も入れるようなかんじ。食事もうんとおいしくなっていました。まだ僕が20歳の頃に見たロンドンは地下鉄も臭くて、町にはホームレスの方がたくさんいて、というかんじだったのですが、景気のよさがこういうところに反映されるんだなあと驚きました。 しかし、ロンドンには今度はほとんどいなくて、メインはウエールズ。英国占星術協会の大会は、毎年場所を変えて行われますが、今回ははじめてイングランド以外で開催されたのです。正直言うと、短い時間での発表ではとても新しい情報を得たり、深く考えたりすることはできません。僕にとって大会出席は友人と再会するという社交の目的と言い訳を作って日本を離れる機会、というぐらいの意味になっていたのですが(意見の交換などは今ではメールでできますし、本当に議論したい相手とは夜を徹して個別に、ということになります)今度はそれにはとくにうってつけでした。ウエールズは憧れてはいたものの、なかなか短い旅程では訪れることができず、今回はとてもよいきっかけだと思ったのです。 仕事仲間であるライターの中谷マリさん、それに新進の旅行ライター谷野くんにご同行願って、大会もそこそこにウエールズをドライブすることになりました。また案内役には、僕が訳した『ユングと占星術』の著者、マギー・ハイドさん、それからそのパートナーで、ケント大学大学院で講師を務める世界の占星術界の重鎮ジェフリー・コーネリアス氏です。コーネリアス氏の親戚の方がウエールズにいらっしゃるというのでそこを訪ねながら、B&Bを泊まりながらドライブするというもの。 スランゴレンという小さな町に、コーネリアス氏の親戚の方が住んでいらして、その家の集まりにも参加させていただきました。ウエールズ語が飛び交い、ときにイングランドをこきおろし、アーサー王の墓は絶対にウエールズにある、などといった冗談が飛び出す明るい親族団欒の場に、ごいっしょさせていただいてとてもいい経験ができました。面白かったのは、その親戚の方が説教師を勤めていらっしゃる、小さな教会を訪ねたときのことです。コーネリアス氏が非常に驚いて「ほら、みてみろ」と、教会の縁起解説のパンフレットをみると、なんと、その教会が奉る(こういう表現がいいのかどうかわかりませんが)聖者の一人が、「占星術家」だったと書いてあるではりませんか。教会が「占星術家」を聖人と認定することはきわめて異例のことのはずです。コーネリアス氏は、占星術家4人が同時に訪ねた教会が、占星術とゆかりが偶然にも深いものだったという偶然に何かを感じていらしていたようです。 それから、宿では面白い経験もしました。夜中にドアをトントンと叩く音がするのです。同行の谷野くんもその音は聞いていたようでした。そのときには気にしなかったのですが、ほかの客と主人とのおしゃべりを聞くともなしに聞いていると、「この家には幽霊がでませんか」とかなんとか。そのカップルも不思議な体験をしたようなのです。主人はそのとき、否定も肯定もしませんでした。で、朝食のときに、コーネリアス氏が思いきってご主人に直接訪ねてみたんです。 『この宿には幽霊が出るんですか』 すると、ご主人は「オフィシャルにはノーです」 ということは? 噂では、その宿の中庭には馬の幽霊がでるのだとか。古い街道のそばにあるその宿らしい逸話です。でも、より面白かったのは、それからの会話。「幽霊が出るなんて噂があったら困るんじゃありませんか?」と、僕がいうと「まあ、そんなに悪さはしないんで」と、ほかの客が割って入り、「いや、ある不動産なんかは幽霊が出るからってことであるお屋敷を割高で売ろうとしているくらいですよ」というのです。「はあ?」「いや、それぐらい由緒や歴史性があるってことですよ」 なるほど。幽霊もでないようじゃ物語や歴史性が感じられないってことですか。いっしょにいたマギーさんなどは、そんな話は尾ひれがついている、というのですが、その客も譲らず、本当だ、と。それほどまでに幽霊の存在が親しまれているんでしょうね。心霊科学協会が生まれたのもイギリスですし、その背景には、信じるとか信じない、といった次元ではなく、由緒とか歴史性の担い手としてのゴーストが愛されているんだと感じ入った次第です。こわいだけじゃないんですね。 それから、古書で村おこしをしたヘイ・オン・ワイという村を訪ねました。ここは村全体が古書店。お城全体が古書店になっているところもあり、これも古いものを愛するイギリスらしい試みだなあと感心しました。村おこしといっては、なんだかプラスチックなテーマパークばかりつくるどこかの国の自治体は見習ってもいいんじゃないでしょうか。 それから、占星術関連で起こっているホットことは占星術と大学との関係です。数年前から匿名の富豪から相当な金額が英国の占星術コミュニテイに寄付され、その基金をもとに占星術をもう一度大学に取り戻そうという動きが出ています。そして、現在では3つの大学でカリキュラムが始まりました。サザンプトン大学では主に統計学をつかっての占星術研究です。またバース・スパ大学では歴史学、ないし社会学関連でやってゆこうとしているように見えます。ジェフリー・コーネリアス氏がかかわっているのはケント大学の大学院で「宗教経験研究コース」のなかで、占いをとりあげています。易や占星術の世界観も研究対象です。 アメリカでも占星術専門の大学が出来ていますが、しかし、僕が見ているかぎりでは、占星術の技術を疑念なく教えていることが多いようで、その世界観にたいして批判的な視線を向けることがほとんどないようにも思えます。まるで普遍的、客観的に存在する占星術があって、数学のように教えることが可能だと信じているようなのです。 先生、僕がないものねだりなのかもしれませんが、「大学」にするということを第一目的にしてしまっては、なんだか権威主義的なかんじになってしまいますよね。占星術という営みは何なのか、そして、それが何を生み出しているのか、占星術的な、「霊的」なものは実在するのかどうか、そして、そこで起こってくることは何なのか、ということを考える。そのためには占星術内部にいるだけではだめで、相当の蓄積のあるほかの学問を参考にする。こういうパースペクテイブから何がしかの活動をしてゆくことが大事なのではと思いました。 そのあたりの感覚は、幸いジェフリーさんやマギーさんとも共通していて、さまざまなことを議論できました。これはもしかしたらどこかで先生の学問のなかでの「審神者」の問題とつながっているのかもしれませんね。 さて、最近では北朝鮮の問題やイラクの問題などなどまだまだきな臭いことが噴出しています。来年は土星が蟹座に入ります。蟹座は祖国や家庭を意味する星座です。そこに土星という影や抑圧を意味する星が入る。おびえやおそれのあまりに過激なナショナリズムが出てこないか、少し心配しています。 久しぶりにイギリスに行って帰ってきたら妖精学者の井村君江先生からお手紙が来ていました。11月の妖精の会の集まりで、井村先生、鎌田先生、僕の3人で鼎談をしませんかということ。僕のような若輩者をお招きいただいて感激しています。この会も、とても楽しみにしております。それでは、また。 2002年9月26日 鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま 鏡さん、この間、いろいろととてもお忙しかったようですね。そのため、今回は中秋の名月の時にレターを交換できなかったのは残念ではありましたが、あなたからの手紙を待ちわびながら毎日月を眺めているのは、なんとも風流で、いにしえ人の文のやりとりを思い起こさせてくれました。和泉式部や紀貫之や、はたまた藤原定家や源実朝の時代などの。満月を期して文をやりとりするというのは、何か生命のサイクルやリズムに深くタッチするものがありますね。そのことが改めて確認できたことは収穫でした。ほんとうにわたしたちはとてつもなくロマンティックでファンタスティックなやりとりをしているのだということをしみじみと感じました。 さて、イギリス旅行、大変面白く稔りがあったようですね。わたしも8年前に一度、その頃小学6年生だった息子と二人でウェールズ地方やストーンヘンジを訪ねたことがあります。アイルランドの歌手メアリー・ブラックの歌を聴きながら。しかし、行く先々で法螺貝や石笛を吹く父親を見て子どもは嫌がりましたけど、他に頼る人はいなかったので、しょうのない親だとあきらめていたようです。鏡さんのレターを読みながら、そんなことも懐かしく思い起こしたりしました。 わたしはロックシーンの中では、ブリティッシュ・ロックやアイリッシュ・ロックがとても好きです。アメリカン・ロックよりも。その理由は、イギリスやアイルランドのロックにはケルト的なマイナーな旋律や暗い情熱が染み込んでいるからかもです。リヴァプール生まれのジョン・レノンはアイルランド系移民の子どもだし、ケイト・ブッシュやT・レックスやマイク・オールドフィ-ルドや、キンクスやドノヴァンやデヴィッド・ボウイにもケルトの香りを感じます。U2やクランベリーズはもちろんのこと。わたしは特に、エリノア・マクヴォイの「ウーマンズ・ハート」とU2の「ウイズ・オア・ウイズアウト・ユー」が好きですね。 ところで、先月、8月25日に大阪市西成区釜ヶ崎で、「Soul in 釜ヶ崎 魂の痛みを聞く」というシンポジウム&ライブが開かれ、基調講演者および神道ソングライターとして参加しました。そこで感じたことを書いてみたいと思います。 わたしはシンポジウムの前日の24日に釜ヶ崎に入り、実行委員会のスタッフと打ち合わせの後、NPO釜ヶ崎支援機構スタッフの大塚さんの案内で釜ヶ崎を歩きました。夕暮れ時の三角公園では、大型テレビの前に人だかりができていました。それは釜ヶ崎の労務者たちが日雇い仕事を終えてほっとくつろぐことのできたひと時だったのかも知れません。あるいはその日の仕事にあぶれて、手持ちぶたさの暑い一日を過ごし、明日に期待をつないで顔見知りの仲間のいる夕暮れ時の公園に来たのかも知れません。 その日雇い労務者が一番望んでいることは、同情やチャリティ支援ではなく、仕事です。「仕事さえあれば」と彼らは口々に言います。「仕事にありつければなんとか自分の力で生きていける。だから、仕事がほしい」と。 だが、その仕事がなかなかないのです。世は不景気で、大企業でもリストラが進行しているご時世です。日雇い仕事は真っ先に切り捨てられます。そして使い捨てられます。景気の影響をもろに受ける、もっとも不安定な仕事なのです。シンポジウムの冒頭で「釜ヶ崎の現場から」という報告をした本田哲郎神父(カトリック・フランシスコ会司祭)は、釜ヶ崎の野宿者の一日の収入が三百円から四百円だと語っていました。ホカホカ弁当を買えばいくらも残らない。そんな彼らが食べ物を譲り合い、分け合って食べている姿の中に尊いものを見る、と。と同時に、弱者切捨ての社会矛盾に憤りを覚え、その構造を変革しなければと思う、と。 野宿者が、一万人から一万五千人。その平均年齢は、五十歳から五十七歳。行き倒れが、年間七百人から八百人。生活保護を受けようとしても、住民票と身元引受人がいなければ手続きができません。あきらめて野宿生活をしようとも、冬を越せず、凍死する人が何人もいます。仮に住民票と身元引受人がそろっていても、給料の後払いではそれまでの生活ができない人がいくらもいるのです。本当にその日の日銭にも事欠いているのですから。本田神父は、もう二十年近く釜ヶ崎で活動をしています。炊き出しをしたり、教会でミサをしたり。その本田神父は、「小さくされた者の側に立つ神」の手足となってはたらいている人です。「人権とともに、人間の尊厳を大切にしたい」と、シンポジウムで本田神父は語りかけました。「仕事があればなあ」とつぶやく、野宿を強いられている「仲間たちの心からの願いに連帯する」支援をしたい、と。 本田神父は、低みに立つ者のまなざしと耳を持っている方だと思います。高みから見下ろしたり、物申す姿勢ではなく、「低みに立つ神」の心をわが心として生きようとしている人だと感じます。それは釜ヶ崎で学んだ、とても自然でやさしいふるまいに見えます。そこには「人間の尊厳を大切にしよう」とする思いが行動に表れているのです。本田神父は、ときどき、「洗礼を受けたい」という労働者の願いを聞くと、それに対して、「へたに信者になると、人間が小っちゃくなってしまうから止めとき」と答えると言うそうです。信者になると、「俺はキリスト教信者だぞ」と変な自尊心やエリート意識を持ってしまって、未信者の労働者を「あいつら」と呼ぶようになったり、以前のように、純粋に神を求める心や、仲間を大切にする気持ちが自然に発露する機会が少なくなることがあるからだそうです。 宗教が人間の解放になるのではなく、人間の呪縛になったり、差別の拡大再生産を生み出すことがあることを、本田神父はリアルに見てとっているのです。本田神父の日曜日のミサは、朝九時から十時まで行われました。わたしは、一番前でそのミサに参列し、聖体拝領を受けました。本田神父は、信者にも未信者にもわけへだてなく聖体拝領を授けているのです。わたしはキリスト教信者ではありませんが、本田神父の姿勢やお考えに大変共感し、真っ先に聖体拝領を受けました。聖体拝領とは、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りや最後の晩餐の事蹟に基づく、キリストの身体をパンとぶどう酒に切り裂き、分かち食べ、福音と救済にあずかる秘儀です。本田神父が司祭を務めるふるさと教会の祈りのしおりの「栄光の賛歌」には、 天にかがやく神の栄光は、 地の低いところ、 主とともに立つ人からかがやき出る。 痛みを知る貧しい仲間たちこそ、 世に平和をもたらす者。 小さくされた者のなかに働かれる主よ、 あなたこそ「世の罪」抑圧と差別を取りのぞく神、 あなたは、わたしたちの苦しみ、さびしさ、不安、怒りを身をもって知っておられる方。 わたしたちの願いを聞きいれてください。 地の低いところに立つ主よ、 あなたこそ聖なる方、 あなたこそ王である方、 あなたこそ神。 と書かれてありました。「地の低いところに立つ」ことの重要さと、信者であるか未信者であるかにかかわらず、神のはたらきの中にあるという信仰の大らかな寛容さの重要性を、この度の釜ヶ崎訪問とシンポジウムの両方から深く学びました。いわゆる「正統派」の教会はそうした思想と実践に違和感を抱いたり、はっきりと反対の意志表示をしたりするでしょうが、わたしは本田神父のような方向性と実践こそが、「人間の尊厳を大切にする業」であり、「霊性=スピリチュアリティ」の本源からの活動であると心底思いました。そこにはたらいている「聖霊」の存在をわたしは確信します。そして、わたしが主張してきた「八百万神道」もそうした方向性と実践の中にありたいと思うのです。宗教と立場こそ違っても、同じような信と方向性を持つ実践はあるのです。 宗教や信仰が人間や社会の解放や成熟につながるのではなく、人間を呪縛し、硬直化させ、小さく頑なにさせてしまうとしたら、そのような宗教や信仰は、いったいどうような意味と未来性があるのでしょうか。原理主義による対立や闘争が激化している今日、それを中和し、対話させ、深く交流させていく宗教や信仰が求められているのではないでしょうか。平和のワザオギが。宗教による共生と平和ではなく、宗教による闘争と差別がいまださまざまなところで問題や事件を引き起こしている現実を根本から正していくためには、宗教や信仰の立場ではなく、「霊性の地平」に立つ必要があるのではないでしょうか。「霊性の地平」とは、宗教や信仰が生まれ出てくる以前の畏怖や感謝や祈りの地点であり、宗教の枠を超えた祝福・感謝、そして反省の道です。わたしはそうした「霊性の地平」こそが、宗教や信仰の対立や闘争を、温和や対話や鎮魂へと架橋するものではないでしょうか。そう思うのです。 ジョン・レノンの「神(God)」という曲(ファーストソロアルバム『ジョンの魂』1970年、に収録)の中には、 神はわたしたちの痛みを測るための概念だ God is a concept by which we measure our pain. という冒頭のフレーズがあります。この歌は、ジョンの歌の中でも特別好きな歌の一つです。詞がストレートで実に深いのです。ジョンは言います。「神」とは、「痛みを測るための概念」だと。もっと言えば、「神」とは「わたしたちの痛み」を「聴く」耳、なのです。「神」を知るということは、そのような「痛みを聴く耳」を持つことではないでしょうか。「聴」とは、耳偏に「十四の心」と書きます。つまり、「十四歳の心の耳」を持ちつづけること、それが「痛みを聴き取る心の耳」であり、「神の耳」ではないでしょうか。それは、一番、ひりひりした、丸裸の「私」が生まれ出てくる時代の耳です。永遠の少年とは、そういう「十四の心」を持っている人のことではないでしょうか。「痛みを測る耳」とはそんな耳ではないでしょうか。 鏡さん、最近わたしは、瀬上正仁さんが著した『明治のスウェーデンボルグ』(春風社)を読んでたいへん感動しました。これは、新井奥邃、森有礼(明治時代の初代文部大臣)、田中正造という三人の明治人が共に、スウェーデンボルグ神学に基づくキリスト教を受け入れながら、新しい信仰の境地や教育や政治や住民運動を展開したことを明らかにした本で、ほんとうに面白く、目を見開かされました。 実は、この9月22日、満月の夜にスウェーデンボルグ協会の年次大会が豪徳寺の新教会で開かれ、そこで「宮沢賢治における多様性の中の一致」という話をした時に、その会場で聴いてくれていて、鋭く深い質問をしてくれた人が瀬上正仁さんだったのです。瀬上さんは仙台で整形外科医をしているお医者さんですが、高校時代からキリスト教と神道を体験的に学んできたユニークな方です。スウェーデンボルグはヤコブ・ベーメとともに、近代の神秘の山脈ですね。もっと深くスウェーデンボルグを学んでみたくなりました。11月27日に、フェアリー協会の大会で、井村君江先生と三人で「神と妖精と星を探して」という鼎談をする時に、ぜひスウェーデンボルグのことも話してみたいですね。またお会いできるのを楽しみにしています。それでは次の満月までごきげんよう。 2002年9月26日 鎌田東二拝 |