2003/12 満月 - Moonsault Space

拝啓 鎌田東二先生

 もうすぐ満月ですね。クリスマスが近づくこのごろは毎年気持ちが華やぐものですが、キャロルを聴いても今はどうも100パーセント、そんな気持ちにはなれません。
 ついにイラクで日本人の犠牲者が出てしまったのですからね。外交官が殺害されたあの事件がテロなのか、そうではないのか、いまだにはっきりしないようですが、テロの線は農耕ですし、たとえそうでなかったとしても、イラクに貢献しようとする日本の、あるいはほかの国の文民、軍人(自衛官も含めて)が容易にテロの標的になる可能性があることを今回の事件は浮き彫りにしました。僕も先生と同じ、イラク派兵には断固反対です。それがいい結果を生むとはとても思えないからです。

 どうも、僕はこのところ妄想気味になっています。人類の集合的無意識がそのままあらわになっているような状況が毎日テレビを通じて流されているからです。このような暴力的な状況は、本来はまさに夢のなかにのみ出現すべきものではないでしょうか。人類がもつ力が大きくなってしまったがゆえに、このような暴力性までが拡大されてゆくのでしょうか。それとも、意識と無意識を隔てるヴェイルが薄くなってしまっているのでしょうか。
 集団心理の問題として、注意深く観察すべきことがたくさんあるのではないかという気になってきます。

 ところで、またしても中沢新一さんの新刊が出ましたね。『精霊の王』。日本の、あるいは環太平洋文化圏の古層に存在する「精霊」がシャグジというかたちで日本のなかには残っていて、それが蹴鞠やら能やらさまざまな芸能のかたちで顕現しているという話でした。なかのモチーフには、中沢先生が最近問題にしておられる贈与であったり、トポロジーのメタファーで語られる存在論であったり、ユニークな素材がたくさん盛り込まれていてとても楽しく読みました。相変わらずの手際の見事さにやられっぱなしです。

 島園先生は、そのような活動をされていたのですね。宗教学者としての役割として、スピリチュアリテイの立場から、社会にたいしてメッセージを送られる姿勢には、とても頼もしく思えます。もはや学者がただただ現象の記述と分析に終始していられる時代は終わったのではないかと思うのです。それはさきほど述べたように、人類のもつ技術の力があまりにも肥大してしまったから、ということに尽きるでしょう。自然界のなかで環境に対してこれだけの影響を与えることができる生命はヒトのほかにはちょっと考えられません。テクノロジーは、自然を一気に変形させます。環境を捻じ曲げることさえ可能です。それは生命というものであってもです。

 僕はとくに生気論者ではありませんが、しかし、生命というあまりにも複雑で精緻なシステムに対して無防備に手をつけることは、それこそ、中国で飛んだ蝶が起こした風が、アメリカで大きなハリケーンを起こすことになるような、「バタフライ効果」を生み出さないとはいえないからです。

 先生が医学を学ばれているのにも、そんな意味があるのでしょう。医学というジャンルは、今きわめて大きな問題になっていると思います。
 このまま医療が進めば、結果的に生命の商品化が起こってくるに違いありません。いや、それはすでに起こっていることだと思うのですが、高度医療を受けられる一部のお金持ちと、そうした医療を受けることができずに病に向き合ってゆく人たちの二層化が日本のなかでも起こってきます。もちろん、どちらが幸福かということになると話は別の次元になってくるのでしょうが、医療や行政の本義としてはそのようなことがないようにすることを目標にすべきではないでしょうか。怪物化してゆくテクノロジーとどのように向き合うかとうのは本当に大きな課題です。

 占星学においては04年頭には天王星が本格的に魚座に入ることになっています。天王星は改革の惑星であり、魚座は12星座の最後の星座であり、すべてを包み込むための『慈悲』の星座だと思うのです。そこで今後天王星が魚座にとどまる7年は、医療を含めて慈悲をどのように実現してゆくか、というのが地球的な課題になると星は告げているように思います。

 世界の占星術家がどのようにこの星の配置を考えているか、ご紹介してみますね。
 面白いところでは、つい先週アメリカから届いたばかりの『仏教徒の占星術』Buddihist Astrologyの著者J.シャネマンとJ.エンジェルの見解。この本にはごく短いものですが、ダライラマ法王の序文がつけられています。出たばかりですが占星術に仏教徒としての視点を加えた面白いもの。星座別の解説はないのですが、対応するハウスの解説をみると、天王星が12ハウスの場合には「自発的な無意識の持ち主で、もし心を落ち着かせることができるならば、サトリ体験をすることもできる」。
 とあります。これから人の無意識を揺さぶるようなことがたくさん起こってくるでしょうが、それにたいして自分の心の安定を作ることができれば、新しいインサイトを得ることができるということなのでしょうか

 アメリカの伝説的な占星術家イザベル・ヒッキーはこのように解釈します。
 「この配置は古い因習を打破し、直観的な理解と知恵をもたらす。きわめてサイキックなタイプ。人類に奉仕し援助することを志向する。金銭や権力を求めるビジネス的な人間ではない。繊細な感受性のゆえに苦しむこともある」
 これは個人にたいしての解釈ではありますが、もしこれがマクロなレベルで起こってくればきっと状況はずいぶんと変わってくるのでしょうね。

 湯浅泰雄先生の編による『スピリチュアリテイの現在』(人文書院)にレポートされているように、WHOの健康の定義に「スピリチュアル」という言葉が導入されるかもしれないという動きがあるとのことですが、このような動きも、天体の運行とシンクロしているようで面白く思っています。

 では、今日はこのあたりで。

 師走のあわただしいときですがどうかお体にお気をつけて。

敬具 2003年12月3日 鏡リュウジ拝

追伸:『神道のスピリチュアリテイ』お送りいただいたそうですが、なぜか不着になっております。あわてて近所の書店に走ったのですが、入荷が遅れているとのことでした。なんとかして手に入れようと思っています。読ませていただくのを楽しみにしております。せっかく送っていただいたのに、申し訳ありません。



拝復 鏡リュウジさま

 鏡さん、人生というものは不思議なものですねえ。最近、つくづくそう痛感します。出会いというものも、別れというものも、神秘不可思議です。もちろん、鏡さんとの出会いや、このムーンサルトレターのやりとりにもそうした不思議を常に感じています。

 世は、自衛隊のイラク派兵に突っ走っています。わたしは明日デモに参加するつもりですが、こんなことになったのも、そのきっかけの一つは、昭和のあとの元号を「平成」にしたからだとわたしは15年前から言い続けてきました。まったく神懸り的な言い方ですが、「平成」の世とは、「平和に成る時代」ではなく、「乱世の始まりの時代」であり、「武者の世の始まりの時代」であると言い続けてきました。そのことは、幾たびも書いています。例えば、喜納昌吉さんとの共著『霊性のネットワーク』(青弓社、1999年)などの中で。

 突飛だと思われるかもしれませんが、わたしは元号が昭和から「平成」に変わった日、これからの戦乱を覚悟しました。「これから大中世がやってくる!」と。5歳の子どもの手を引いて保育園から帰りながら、この子どもたちをどうしたら護り育てることができるのか、前途の困難にため息をつきながら、覚悟を決めました。わたしの先祖鎌田正清は「平治の乱」(1159年)で源義朝とともに殺されましたが、それは「平治元年」のことでした。この年、初めて、「平」の頭文字を持つ元号の世となりましたが、その元号の願いとは裏腹に世は「平らかに治まる」どころか、戦乱が相次ぐ「武者の世(むさのよ)」(慈円『愚管抄』)となり、「平氏が治める」乱れた世となり、武断政治が始まったのです。「平成」も同じような時代になる、いやそれ以上の乱世になると直観したのです。

 「平成」への転換を告げたのは、小渕恵三官房長官(当時)でしたが、時の竹下首相も小渕官房長官も後にともに急死してしまいました。その後、政権は森首相、小泉首相と継承されて、有事法制化、イラク特措法、イラク派兵へと武断政治化への道をひた走っています。わたしは野蛮な人間なので、そのような武断政治を木っ端微塵に粉砕してしまいたいのですが、しかしそれを暴力による方法でではなく、心から尊敬しているガンジーのような非暴力主義を通して実践し実現したいと心底願っているのです。15年前に子どもの手を引いて家路を辿りながら、わたしが決意したのはそのような非暴力的な非戦平和への「たたかい」の道だったのです。それがどこまで、どのようにして実践できるか、わたしにもわかりません。自信がありません。暴力に呑み込まれていく中で、どこまで非暴力を貫けるのか、先行きに確かなものは何一つありません。しかし、たとえ自信もなく力もなく知恵もなかったとしても、その道を歩んでいくほかないのです。そのことを誓った日の念いを心に抱いている限りは。

 この世の「負債表=貸借対照表=バランスシート」を作ったとしたら、人類が一番大きな「負債=借金」をこの存在世界から負っているのではないかと思います。その「負債」をどうしたら返せるのでしょうか。いつも、いつも、そのことを考えます。どうしたら借金が返せるのか。人類は動物や植物たちから断罪され死刑の判決を受けても仕方がないことをしてきたと思います。動物や植物に裁判権があったら、真っ先に人類を断罪するでしょう。その「罪=負債」をわたしたちは受け止め、何らかの形で少しずつでも返済していく務めがあるのではないでしょうか。罪は償われねばならないのです、必ずや。

 ところで、中沢新一さんの新著『精霊の王』(講談社、2003年11月20日)は、鏡さんが興奮して指摘されている通り、とても魅力的なテーマと文体の本ですね。いつも感心しますが、中沢君の本は、タイトルと文体が秀逸です。今、読んでいる最中ですが、いつもながらの思考の柔軟さと発想の新鮮さ、大胆さには気持ちのいい衝撃を感じます。ところどころ異論がありますが、それを差し引いても大変面白く重要な問題提起作で、『緑の資本論』(集英社、2002年)と同様、興奮しました。とても、スリリングでスマートでチャーミング。

 中沢君は、ここで「シャグジ」を日本列島の最古層の神として位置づけ、それを中世の能楽師・金春禅竹の『明宿集』の中によみがえった「宿神」と連結し、新石器時代からの「精霊」たちの群像をこの時代に召還し、その「霊性」とパワーを持って、政治権力や国家の境界線によって囲い込まれた呪縛された思考の「後戸」のカミガミを解放しようと企図しています。その意味では、中沢君が布置しているのはまさに、「縄文革命」あるいは「新石器世界革命」の思考です。その「縄文的・新石器的思考」が呼び覚ました古層の神が「精霊の王」たる「シャグジ」です。

 中沢君は言います。「シャグジは国家の管理するカミガミの体系に組み込まれたことがない。しかも古い神名帳に載せられているどんな神々よりも古くから、この列島で活躍していた精霊なのである。素性をたどると縄文文化にまでさかのぼる古さを持ち、人間が超越的なものについて思考するようになってまだまもない頃から、すでにその活動ははじまっていた。その頃はまだ神社というものはなく、宗教の組織などもない世界で、この精霊は地球的規模の普遍性をそなえながら、人々の具体的な暮らしに深く浸透した活動をおこなっていた」と。

 また、こうも言います。「今日『日本文化』の特質を示すものとして世界から賞賛されている芸能と技術の領域を守り、そこに創造力を吹き込んでいたのは、この列島上からすでに消え失せてしまったかと思われた、あのシャグジ=宿神というとてつもなく古い来歴を持つ精霊だったのだ」、「秩序の神、体系の神の背後に潜んでいて、自分自身を激しく振動させ、励起させることによって、世界を力動的なものにつくりかえていこうとする神=精霊の存在を、中世日本の人々は『後戸の神』と呼んだ」と。

 この本は、思考の自由革命家たらんとしてきた中沢新一の面目躍如たる本ですね。「後戸の神」を環太平洋圏にまで広げ、人類の「アフリカ的段階」(吉本隆明)に遡行しようと企図しているのですから。中沢新一という人は、イマジネーションを喚起し、攪拌し、飛翔させることのできる、本当に優れた作家だと思います。30年前彼と初めて会った日のことを忘れることはできません。

 30年前のある日、わたしは東京大学文学部の宗教学研究室に、ある人類学者の本のコピーをとらせてもらいに行きました。そこに、背中まで長く髪を伸ばした青年がいて、「それはここにはないよ。ぼくもそこに行くから連れてってあげるよ」と、気さくにわたしを人類学教室まで案内してくれて、その本を見つけ出してくれ、コピーするのを手配してくれました。そのインドかぶれ風の長髪の青年が中沢新一君だったのです。その時、わたしは直観的に「この人は世に出る人だな」と思いました。昔から、わたしの直観はよく当るので、その通りになりましたが、以来、彼とは因縁浅からぬものを感じてきました。大げさに言えば、二卵性双生児とでも言うような。彼の方がわたしよりずっとスマートですが。いつか笑いながら、「まーったく、しょうがないけど、ほんとだね」と言えるような日が来るのでしょうか。

 わたしは、この9月11日にセカンドアルバム『なんまいだー節』を、そして、11月25日に新著『神道のスピリチュアリティ』(作品社)を上梓しました。後者は、中沢君の『精霊の王』出版の5日後のことです。なぜその日にしたかというと、もちろん、三島由紀夫が自決した1970年11月25日を念頭においてのことです。わたしはけっして三島由紀夫の讃美者ではありませんし、三島由紀夫の小説は好きではありませんが、彼が突きつけた「文化防衛論」などの思想的問題は大変深く大きかったと今でも思っています。三島由紀夫は彼独特の嗅覚で日本の未来を予見していたと思うのです。結論と実践のかたちは違っても。

 わたしは、9・11米同時多発テロ事件以降の国内外のさまざまな事件や紛争、戦争に対する鎮魂の念いや世界平和への希求を込めて、あとがきを9月11日に書き、11月25日を出版日としました。わたしは、これまで、「霊性」という語をタイトルに持つ本を3冊出しています。『宗教と霊性』(角川選書、1995年)、『霊性のネットワーク』(喜納昌吉氏との共著、青弓社、1999年)、『霊性の時代』(加藤清氏との共著、春秋社、2001年)の3冊です。どれも、ある危機感に迫られて出版したものです。そして今、「スピリチュアリティ」という語を初めて表題にした本を出しました。

 今度の本には、出版社(作品社)の理解を得て、CDを付けるという実験をしています。この中には、2001年に出版した『元始音霊 縄文の響き』(CDブック、春秋社)の中で「元始音霊ユニット」として演奏した石笛曲2曲と、ファーストアルバム『この星の光に魅かれて』から神道ソング5曲を選曲し、「縄文・火」「弁才天讃歌」「神」「ぼくの観世音菩薩」「銀河鉄道の夜」「月山讃歌」「天雷」の合計7曲を収めています。そこに、わたしなりの鎮魂の念いを込めました。

 このわたしの新著は中沢君の新著とある面で呼応しています。そこでわたしは、「神道のスピリチュアリティ」を、ひそやかな、かそけきいのちの声を聴く「生の羅針盤」ととらえ、それを縄文の森のヴォーカルを聴き取ることから始めようと企図しました。そしてその「ヴォーカル」を自分自身の喉を通して変換しようとしました。あとがきの中で、そんな自分を「社会派の門付け芸人」と自己規定しましたが、わたしの企図したことは中沢君の『精霊の王』の次のような一節とまったく響きあうものです。

 「しかし、芸能の徒だけは違った。彼らはいつまでも『古層の神々』の一人である宿神を守り、宿神が住まうあの不思議な空間のなりたちそのものを、芸能のかたちに洗練してみせることで、すっかり国家的な力の結構に覆われてしまった列島の中を移動しながら、非国家的な思考の輝きの残映を、いつまでも伝え続けようとしたのだった。とはいえ、それはけっしてめざましい表現形態をとったわけではない。人間が動物や霊的存在のしぐさを真似る物真似の芸(猿楽)、その逆に猿のような動物が人間のすることを真似てみせる芸(猿曳き)、身体をすっかり機械にしてしまう見世物の芸、お笑いと祝福の芸……宿神に守られながら、彼らは手にしたささやかな芸をもって、落ちぶれたとはいえいまだに自由な息吹を失っていない国家以前の野生の思考の残滓を、いまに伝えてきたのである」

 わたしもそのような「猿楽」や「猿曳き」や「いまだに自由な息吹を失っていない国家以前の野生の思考の残滓」のいくつかを『神道のスピリチュアリティ』として再確認し、再布置化しようと試みたのです。それがどこまで説得力を持ち、成功しているかは読者の判断に俟つほかないのですが、しかし、そうした念いを持って出版したことは事実です。

 中沢君の新著を読み進めながら、彼の思考のスマートさや豊かさや柔らかさに、確かに「いまだに自由な息吹を失っていない国家以前の野生の思考」の躍動と願を感じました。いい本です。とても。時に、ロジックのアクロバティックな飛躍がありますが、それも中沢君ならでの魅力的な特技であると思えば、彼の創造的想像力の総力がこの本に注入されているといえるでしょう。ただし、わたしならば、この本のタイトルは、『精霊の主(ぬし)』としたでしょう。「王」という表現をわたしは好みません。

 今日もまた長くなってしまいました。鏡さんの指摘に刺激されて、思わず知らずいろいろと述べてしまいました。今年はこのレターが最後のレターの交換となりますね。この一年間、いろいろとありがとうございました。本当に、今ではとても口に出しにくい言葉となりましたが、あえて言います。よいお年を!

2003年12月5日 鎌田東二拝

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