2003/10 満月 - Moonsault Space

拝啓 鎌田東二先生

 もうすっかり日差しも風も秋の深まりを告げていますね。おいしいものがたくさんマーケットに並ぶ時期になりました。食いしん坊の僕は、この時期になると毎年そわそわし始めるのです。マツタケにサンマにシャケ、葡萄に梨、そしてカキなどなど。今日は何を食べようか、なんて考えてしまいます。欲望まみれの人間です。その分、四季の変化があるこの国に生まれたことを心から感謝しています。
 この世界の豊穣さをどんなふうに言い表せばいいのでしょうか。

 なんてこんなことを書いていると、前回の東京自由大学でお話させていただいた「グノーシス主義」とはまったくかけ離れた生活だということになってしまいますでしょうか。お礼が遅くなってしまいましたが、先日は大変ありがとうございました。あらためてとても有意義な時間を過ごすことができたと思います。グノーシス主義についても、まったくの度素人である僕が何がしかのことをお話できるかどうかは不安だったのですが、先生をはじめ暖かいみなさんのお心添えもあって、リラックスしていろいろ思いついたことをお話できたような気がします。グノーシス的なるものは、食いしん坊の僕のなかにも完全に存在しています。グノーシスとは何か、結局わからないということを何度か参加者のかたから伺いましたが、もちろん、学問的な意味では僕もわかっているわけではありません。ただ、僕の印象としてはグノーシス的なものの本質の一つにこの世界そのものにたいしての強い、あるいは微細な違和感があると思うのです。

 数あるグノーシス文献のなかでも、あの「真珠の歌」に僕が惹かれるのはそのせいでしょう。まったくの異邦の、欲望にまみれた「エジプト」に使命を帯びてやってきた「王子」。けれど、その王子はエジプト人の服をきて、エジプト人の食べ物を食べてしまったので、本来の使命を忘れてしまいます。そこへ鳥のかたちをして、はるか東方の本来の故郷から呼び声が届く…。この物語に惹かれるのは僕だけではなく、どうも、オカルト運動などにひかれるある種のメンタリテイの持ち主に共通しているもののようです。実際、現代の魔術関係のホームページを主催している若い世代(といってももう30歳くらいになっている人が多いのですが)のサイトで引用があるのを見たことがあります。
 ネット社会の特徴の一つには、「こんなことを考えているのは俺だけだろう」などという思いこみを簡単に壊してくれるところにありますね。いい悪いは別にしても。そんなことを改めて考えながら先生のグノーシス理解のお話を聞いていました。
 先生のグノーシス理解で教えられたのは、先生がグノーシスのなかに社会にたいしての強烈なアンチテーゼを観ておられたということです。僕のほうでは、グノーシスが「アンチコスモス」という方向に向かっているように感じられて、社会をどんなふうに改革するか、社会を否定するかどうかということを考えているのだという意識が足りなかったように思います。どちらのほうがグノーシス「らしさ」をもっているのかどうかということはともかく、何かの力をもって、今の社会の欠点をたった一人になったとしても追求してゆく姿勢のなかにグノーシスがあるのだとするなら、それは僕の考えていたグノーシスのなかに欠落していたものだったといえます。
 もはや「終わりなき日常」などとはいっていられないこの社会なのですからね。

 そのことと関連していうなら、どうもこれまでの「心理学」ブームが変容してきたようにも思います。僕の20代のころはまさに「こころの」時代といわれ、僕のやっている占星術も心理学化の波をもろにかぶってきたわけですよね。しかし、それだけではどうもうまくいかないし、そのような「内向的」な視点だけでは社会に適応する人間しかつくれない。もっとラデイカルで現実的な方法論や枠組みがないかということなのでしょう。でなければ、今起こっている問題について対応しきれないということが明らかになってきた。
 とはいえ、社会のシステムに何か働きかけること自体が、観測者問題のように自分にも対象そのものにも影響を与えることになるわけで、どのようにこれを考えるのかというのは相当大変なことなわけですよね。斉藤環さんの「心理学化する社会」という新刊を読んでそんなふうに思いました。

 それから、「なんまいだー節」、CDありがとうございました。CD第2弾リリース、おめでとうございます。 先生の研究、執筆、講演、そして運動に加えてのこのご活躍、そのエネルギーには何度敬服しても足りませんね。 自作の壮大なプランをお伺いしましたがそれも楽しみに待つことにしましょう。 なんまいだー節、もともともっている深いマントラの響きとポップなメロデイラインの独特の組合せが先生の世界を創っていますね。
歌がもつ祈りの響きが伝わってゆくことを祈っています。

 それでは。 またお目にかかれる日を楽しみに。

2003年10月8日 鏡リュウジ拝



拝復 鏡リュウジさま

 今晩は13夜がとてもきれいです。
 さて、先だっての東京自由大学での「霊性の探究ゼミ」でのゲスト講師、ありがとうございました。とても楽しく、有意義な時間を過ごすことができました。またその後の神田駅前のラーメン屋「にんじん屋」でも楽しくおしゃべりしながら、ラーメンをすすりましたね。神田駅前はとても古い昔風の面影があって好きです。ガード下に、あがた森魚の歌にでも出てきそうな大正ロマン風の飲み屋街があって、迷宮のようでもあり、とてもオールドな雰囲気があっていいですよ。好きです、そんな混沌としたところ。

 「混沌」といえば、9月11日付けで、2枚目の神道ソングCD『なんまいだー節』をリリースしましたが、次の3枚目の神道ソングCDは『混沌』にすると決めていました。タイトルも内容も。曲は1曲のみで、40-50分くらいの大作。美とグロテスク、エロスと禁欲、放縦と禁足、聖と汚辱、迷宮と秩序、両性具有と無性生殖、イメージと無、聖歌と軍歌、マントラとカステラ(なんのこっちゃ?)などなど、ありとあらゆるわけのわからぬものが入ってきて、とても透明な懐かしい混沌の世界が表出されているアルバムと。わたしはわけのわからぬ、とてつもなく美しい曲が書きたいのです。

 最近、その中に挿入される曲ができました。本来、Amだけのワンコードの曲ですが、2度転調し、それをぐるぐる繰り返すので、聞いた人はとてもワンコード曲とは思えないでしょうね。わたしはいつも一つのコードだけですばらしい名曲を作りたいと思っています。複雑で田通のコードを使うのは当り前すぎて興味がわきませんが、1コードでとてつもなく複雑微妙な曲を作ってみたいなと思うのです、いつも。DNAもATGCの4つの「コード」の組み合わせですからね。鏡さんが訳したジュームズ・ヒルマンの『魂のコード』(河出書房新社)という本もありましたね。わたしは、純でいて複雑微妙、野性的で繊細、超絶絶妙という構造体に惹かれます。

 「霊性の探究ゼミ」の中で、「実は、わたしはグノーシス主義者です!」とカミングアウトしてしまいましたが、わたしの「グノーシス主義」とは逆説と否定性の神学の謂です。ジョジュジュ・バタイユの言う「無神学大全」の神学。わたしはニーチェやバタイユやヴェイユやパティ・スミスにグノーシス主義を感じていますが、ハイデッガーの弟子だったハンス・ヨナスの『グノーシスの宗教』(人文書院)の最終章(第13章)は「グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム」でした。そして実際、ヨナスはニーチェを引いています。

 世界――沈黙の、冷たい
 千の砂漠にいたる門。
 おまえの失いしものを
 失った者には、足をとどめる所とてなし。(秋山英夫、富岡近雄訳)

 グノーシス主義者は「故郷を失いし者」、ハイデッガーの言う「故郷喪失者(ハイマートロス)」です。わたしもいつもそう感じていました。何と言っても、パリのセーヌで生れたのですからね。わたしの処女作『水神伝説』は故郷喪失者の一卵性双生児の兄妹が神主と審神者に分裂する魂の分裂と別離の物語でした。わたしのすべてがその本の中にあります。
 ところで、そうそう、『ヘドウィク・アンド・アングリーインチ』ももろグノーシス主義的でしたね。あれは両性具有者としての新たなるアダムの誕生かもしれませんね。日本では宮沢賢治はもろ、グノーシス主義です。わたしはグノーシス主義の香りを嗅ぎ取ることができます。
 去年、このレターを元に、鏡さんと一緒に『心の中の星を探す旅』(PHP研究所)を出した時、巻頭と巻末に献辞を入れましたね。その時、グノーシス主義の文献・ナグハマデイ文書の中の一節と宮沢賢治の詩や童話から候補を選びました。長くなりますが、その候補となった言葉をもう一度引用しておきます。

 イエスが言った、「日々を重ねた老人は、生後七日の小さな子供に命の場所について尋ねることをためらわないであろう。そうずれば、彼は生きるであろう。なぜなら、多くの先の者は後の者となるであろうから。そして、彼らは単独者になるであろうから」。
  「トマスによる福音書」荒井献訳、『ナグ・ハマディ文書2 福音書』岩波書店

 古の賢者たちが、魂に女性名を与えた。実際魂はその本性からして女性である。それは子宮をさえ持っている。 彼女が一人で父のもとにいた間、処女であり、同時に、男女の姿をしていた。しかし彼女が身体の中に落ち込み、この命の中に来たとき、そのときに彼女は多数の盗賊の手中に陥った。そして無法者どもは交互に彼女を襲い、こうして彼女を辱しめた。ある者は暴力で彼女に傷害を与え、ある者は偽りの贈物で彼女を説得した。要するに彼らは彼女を陵辱したのである。こうして彼女は処女を失った。
  「魂の解明」荒井献訳、『ナグ・ハマディ文書3 説教・書簡』岩波書店

 「不滅性」水の領域を眺め下ろした。すると彼女(不滅性)の像が水の中に現れた。すると、闇の支配者たちはそれに恋情を抱いた。しかし彼らの弱さゆえに、水の中に現れたその像をつかむことができなかった。なぜなら、心魂的なる者たちには霊的なるものをつかむことができないからである。なぜなら、彼らは下からの者たちであるが、それ(像)は上からのものだからである。
  「アルコーンの本質」大貫隆訳、『ナグ・ハマディ文書1 救済神話』岩波書店

 われわれは先に語ったアルコーンたちについての話にもう一度戻って、彼らについて解明を提示しよう。 なぜなら、七人のアルコーンたちは、彼らの天から下方の地上に追放されたとき、自分たちのために天使たちを、とはすなわち、多くの悪霊どもを創造し、自分たちに仕えさせたのである。これらの悪霊たちは人間たちに、多くの迷妄と魔術と魔法と偶像崇拝と流血と神殿と供犠と地上のあらゆる悪霊たちへの灌祭を教え込んだ。その際、彼らは同労社として宿命を手にしていた。それは不正義の神々と正義の神々の間の協議に従って生じてきたものである。
 そして世はこのようにして存在するようになったとき、混乱の中に迷妄に陥った。すなわち、世界の開闢から終末までいつの時代も、地上のすべての人間たちが――一方では正義の天使たち、他方では不義の人間たちも――悪霊たちに仕えてきたのと同じように、世は混乱と無知と忘却に陥った。真実の「人間」が到来するまで、すべての者が迷った。
  「この世の起源について」大貫隆訳、『ナグ・ハマディ文書1 救済神話』岩波書店

 さて、彼(父)が万物を生み出し、万物に自分を知らしめるために、自分の身を延ばしたときに彼の中から現れてきた者、彼こそは偽りなくすべての名前。彼こそは、優れた意味で、唯一の最初の者、父の人間である。彼のことを私はこう呼ぶ、
 かたちなき者のかたち、
 からだなき者のからだ、
 見えざる者の顔、
 語り得ざる者のことば、
 知解し得ざる者の知力、
 彼から流れ出る泉、
 植えられた者たちの根、
 据えられた者たちの神、
 彼が照らす者たちの光、
 彼が望んだ者たちの望み、
 彼が配慮する者たちの配慮、
 彼が賢くした者たちの賢さ、
 彼が力を与える者たちの力、
 彼が集める者たちの集り、
 探し求められる者たちの啓示、
 見る者たちの目、
 息をする者たちの息、
 生きる者たちのいのち、
 万物と結ばれた者たちの一致。
 彼らすべては唯一なる者(父)の中に在る。
  「三部の教え」大貫隆訳『ナグ・ハマディ文書1 福音書』岩波書店

 堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます。
 実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。

 まことにこれらの天人たちの
 水素よりももっと透明な
 悲しみの叫びをいつかどこかで
 あなたは聞きはしませんでしたか。
 まっすぐに天を刺す氷の鎗の
 その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。

 けれども堕ちるひとのことや
 又溺れながらその苦い鹹水を
 一心に呑みほさうとするひとたちの
 はなしを聞いても今のあなたには
 たゞある愚かな人たちのあはれなはなし
 或は少しめづらしいことだけ聞くでせう。

 けれどもたゞさう考へたのと
 ほんたうにその水を噛むときとは
 まるっきりまるっきりちがひます。
 それは全く熱いくらゐまで冷たく
 味のないくゐまで苦く
 青黒さがすきとほるまでかなしいのです。

 そこに堕ちた人たちはみな叫びます
 わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか
 堕ちたといふことがあるのかと。
 全くさうです、誰がはじめから信じませう。
 それでもたうたう信ずるのです。
 そして一そうかなしくなるのです。

 こんなことを今あなたに云ったのは
 あなたが堕ちないためにではなく
 堕ちるために又泳ぎ切るためにです。
 誰でもみんな見るのですし また
 いちばん強い人たちは願ひによって堕ち
 次いで人人と一緒に飛騰しますから。
  宮沢賢治「堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます」『春と修羅』補遺

 雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
 心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
 ぬれるのはすぎなやすいば、
 ひのきの髪は延び過ぎました。

 私の胸腔は暗くて熱く
 もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。

 雨にぬれた緑のどてのこっちを
 ゴム引きの青泥いろのマントが
 ゆっくりゆっくり行くといふのは
 実にこれはつらいことなのです。

 あなたは今どこに居られますか。
 早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
 まっすぐに立ってゐられますか。
 雨も一層すきとほって強くなりましたし。

 誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
 向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

 いま私は廊下に出ようと思ひます。
 どうか十ぺんだけ一緒に往来して下さい。
 その白びかりの巨きなすあしで
 あすこのつめたい板を
 私と一緒にふんで下さい。
  宮沢賢治「手簡」『春と修羅』補遺

 「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考えとうその考えを分けてしまへばその実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」。
  宮沢賢治『銀河鉄道の夜』第三次稿。

 うーん。やはり、いいですねえ。泣けてきます。しんみりしてきたので、話題を転じましょう。先回話題にした東京自由大学副理事長で、NPO法人沖縄映像文化研究所理事長の大重潤一郎監督のことを書きます。
 大重潤一郎監督と初めて会ったのは、1998年4月のことでした。その年、わたしは喜納昌吉さんの呼びかけで、1998年8月8日の「888」の8並びの日に、神戸メリケンパークで「神戸からの祈り」というコンサートを行なおうと準備を進めていましたが、その過程で大重監督を紹介され、意気投合し、「魂の兄弟」というか、義兄弟の契りを結びました。そして、「神戸からの祈り」の催しの実行委員長を大重監督が務めてくれることになったのです。それが出会いでした。その頃、大重さんは神戸在住で、阪神淡路大震災の被災者でした。
 以来、二人は「魂速」で走り続け、1999年2月には一緒に、市民の学び舎・東京自由大学を設立し、共に副理事長となって設立当初の苦しい時期を支え合ってきました。その東京自由大学も5年たってようやく、いよいよNPO法人に申請しようと準備を始めています。大変ですけど、やりがいがあります。またそういう「自由大学」が各地に必要だと思います。ベルリン自由大学とか神戸自由大学とか、久高自由大学とか。今年の2月に、大重監督の作品「小川プロ訪問記」がベルリン国際映画祭の正式招待作品として選ばれ、ベルリンに行くということに決まった時、大重さんの仕事をコンパクトに紹介するヴィデオを作ろうと、わたしがシナリオを書いて、『縄文革命』という30分のヴィデオの英語版と日本語版の2種類を作り、大重さんがベルリンに持参し、映画祭関係者に渡しました。『縄文革命』は、大重さんの近作である「古層三部作」の「縄文」「ビックマウンテンへの道」「魂の原郷ニライカナイへ」を一本にまとめたものです。
 人生の出会いとはほんとに不思議なものです。鏡さんとわたしの出会いも、またこのムーンサルトレターのやりとりが始まり、2年も続いているのも不思議ですね。いろんな出会いの不思議があり、別れの不思議があります。

 出会いとはいのちの目覚め
 目覚めることの喜び
 そして
 別れとはいのちの目覚め
 目覚めることの痛みと哀しみ

 来月、新著『神道のスピリチュアリティ』(作品社)が出ます。石笛と神道ソング全7曲付きです。すでに初校校正を終えました。また、今月号(11月号)で丸1年間の連載となる文芸誌の『すばる』連載の「呪殺・魔境論」も、来春には「霊的暴力を超えてゆくために」と副題を付けて集英社から出版する予定です。そして、続いて、博士論文の『言霊思想の比較宗教学的研究』を青弓社から出します。それで、少し落ち着いて、3枚目のCD『混沌』の制作に取りかかります。
 気が狂ったように静かに燃え続けて、この時代の悪意と暴力の中で夢と理想と混沌の創造力を発信していきたいと思うのです。なんだか、ルナティック(狂乱的)になってきたので、この辺で今夜は退散といたします。

2003年10月8日 鎌田東二拝

付記:神道ソングライターとしてのセカンドアルバム「なんまいだー節」は、神田紺屋町5野水ビル4Fの東京自由大学か、西荻窪ほびっと村3Fのプラサード書店に行けば購入できます。ぜひ一度お聴きください。

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