2003/7 満月 - Moonsault Space
![]() 梅雨の合間の晴れた今日、先生はいかがお過ごしですか。満月のときに手紙を交換しましょう、というお約束を今回もまた破ってしまいました。雑事に追われたりしているうちに、だんだんルーズになってしまって本当に申し訳ありません。先生のスケジュールを思うと僕なんか忙しいうちには入るはずないのですが。お手紙を差し上げるのが遅れたために体のことまで心配してくださって、恐縮です。(実は少し前に実際に風邪から喘息を誘発しておりました。もう回復したのですが) 先生は那智のほうに行かれていたんですね。本当に旅につかれた人生なんですね。先生の体験をとても興味深く感じました。僕はいわゆる霊的な感受性のようなものはあまり発達していないタイプなので「場」の空気のようなものを直接に受けることは少ないのです。そこで先生がダイレクトに感じられた場の力の変化というのは、実感をもってわかる、とはすぐにはいえないのですが、確かに、地霊の勢いのようなものが変わってゆくというのはあるんでしょうね。「反転」ということであらわされるような何かの位相が転換しているときがある。 イギリスの伝承でも、たとえばストーンサークルなどの場の雰囲気が、月の満ち欠けやら太陽の運行やらによって一変するということもいわれているわけです。そして、そういう規則的な地球の呼吸のようなリズムのほかに、突然大地の竜が目覚めたり、あくびをしたり、暴れたり、ということもきっとあるのでしょう。僕の体験では、イギリスと日本でそういうことがあります。イギリスではストーンヘンジでのこと。ソールズベリのかのストーンヘンジには何度も足を運んでいますが、今は石のところにはロープが張られていて、観光客は通常は触れることができないようになっています。僕はあるときに、幸運なことにテレビクルーといっしょになって、ストーンヘンジの中に入り込み、そこで寒さに凍えながら夜明けをまつ機会に恵まれたのです。石の間からだんだんと太陽が昇ってゆく、その劇的な視覚的効果もあったんでしょうけれども、あのときは明らかに雰囲気が違った。神聖な空気というか雰囲気が生まれた。観光地が聖地へと戻った瞬間だったんだと思います。 逆に、残念に思うのは京都の鞍馬です。鞍馬の奥の院から貴船に抜けるあの九十九折の道は先生もよくご存知でしょう? 僕が子供の頃には、あの道は本当に人が少なくて、奥の院にたどりつくまでに人ひとりか二人に会う、というかんじでした。けれど今は人があふれるようにいて。場の力が弱まったとは思いませんが、かつてのような暗さと魅力に満ちた雰囲気ではなくなってしまったのは否めないのです。こうしたスポットが人に知られてゆくのはうれしいことですが、逆に、人が増えすぎてしまうというのも、痛し痒しですね。 あ、そうだ。ふたつあるといいましたが、ほかにもありました。イギリスのグラストンベリーのトールや修道院の廃墟跡です。ここも静かな空気に包まれていて、何かの力を感じます。初めてグラストンベリーに訪れたときには、そのすぐそばの安宿に止まっていたんですが、そこでは始めての旅の感激もあってか、トール(小山)の下で緑色のドラゴンが眠っている夢を見ました。それは不思議なリアルさをもっていて、なぜか僕がイギリスの魔法の世界と何かしらのコンタクトをもっていることを直感したんです。 占星術の技法でアストロカートグラフィというものがあります。これは世界地図にホロスコープを投影する方法なんですが、それによると、僕のマップではイギリスの真上を海王星が通過している。つまり、僕が生まれたときにイギリスでは海王星が子午線を通過していました。海王星は、夢と魔法、ロマンや幻想を象徴する惑星であり、僕にとってのイギリスが「魔法」の国であることを示しています。実際、前回のレターでもお話したように、僕はイギリスで何人もの魔法使いやシャーマンたちに会う機会がありました。ハリー・ポッターのブームで、何度かメデイアでも答えたんですが、僕はイギリスのある魔術結社の通信教育を受けていたこともあります。 『神の発明』についての先生の感想は、なんとなく僕も予想していました。そりゃあ、「緑の資本論」のほうがずっと迫力がありますね。わかっていることを書いている、というかんじも、理解できます。ただ、僕のようなタイプの人間にとって刺激的なのは、霊性の物質的基盤という考え方なんです。これはアンリ・コルバンが語っていたようなイマジナルな世界なり、ユングのいう元型の世界なりが、ちゃんとした実在として語ることができるようになってきたということにスリルを覚えるのです。もちろん、霊やこころがすぐに科学で還元的に説明できると考えるほど僕は楽観的ではないですが、物質と分離した霊という考え方ではなく、その連続性、「たましい」の領域をうすぼんやりとでも語れるようになってきたのではないかという直感です。 ステーブン・ピンカーの『心の仕組み』(NHKブックス)という面白い本が最近訳されて興奮しつつ読んでいるんですが、心の働きをコンピュータの計算理論と、進化論によって説明する端緒ができてきた、ということが説得力をもって語られています。もちろん、人間の心のようなものを電気信号に「すぎない」といってしまうつもりはありません。それではミケランジェロの絵画を「絵の具にすぎない」といっているのと同じでしょう。そうではなく、心という途方もない謎に果敢に挑戦している姿勢に共感するのです。占星術や魔術などといった怪しげなことを実践している僕がこうした世界に共感するのはおかしいでしょうか? しかし、僕には占星術や魔術には宇宙的な「真実」というよりも、どうも心の働きの根源にある文法なりOSなりにかかわっているような気がしてならないのです。そして、そこの上にのっているからこそ、そのプログラムは人間のこころの上で走って、運命を物語れたり、ある種の強烈なイメージを喚起して、奇跡に思えるようなことを起すことができる、ということです。これは、フロイトやユング心理学が時代遅れになってきているのではないか、という僕の一時の不安を解消しつつあります。たとえば、こんなふうに考えればいいのではないでしょうか。ユングが語ったようなイメージの世界は、コンピュータでいえば、一種の操作可能なアイコンだったり操作画面のようなもので、いくつかものファイルに格納された別々のプログラムの名前だと。それらが複雑なリンクを張られているので、コンプレックスとして認識されている。しかし、そのプログラムを書くための言語は、人間が感じるイメージとはまた別のものでって、その認知科学が探りをいれているのはその階層なのだ、と。その二つは別に相互排除しないし、両方別のレベルの知として有効なモデルでありつづけると感じています。 しかし、こんなことまで人間は考えるのに、プロメテウスの火はどこまでいくんでしょうね。夏の電力不足を心配しつつ、冷え冷えのオフィスはまだたくさんある、という状況。北朝鮮だってイラクだって火種はたくさんあります。どうか、人間の知と技術の暴走を止められるだけ、僕たちの知が発達していてほしいと祈るばかりです。来月はエジプトに取材旅行に行きます。アレクサンドリアにたって、ヘレニズム占星術の中心の雰囲気、古の図書館の空気を吸ってこようと思っております。感じたことは、またご報告しますね。 2003年7月16日 満月を少し過ぎた日に 鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま 鏡さん、レターありがとうございます。今回は、満月を過ぎてしまいましたが、大変面白いテーマを書いていただいたので、力が入りそうです。まず、場の空気のようなものの存在と力について。わたしがそれをはっきりと意識したのは、17歳の時に訪れた青島と、20歳の時に訪れた恐山においてです。そしてそれを理解するようになったのは、ずっと後の、今から15年前くらいのことでしょうか。青島にも恐山にも、普通の場所ではない、ある特別な、ゾクゾクするような、身体とそこに蹲っている何かを掻き立て目覚めさせるような、場の力がありました。もうそこに近づいていくだけで、粒子が粟立っていて、ざわめき、ゆらめき、うごめき、シャッフルされるのでした。もしかしたら、電磁波や重力や分子配列の違いがあるのかもしれません。そんな感じがしています。それをもちろん証明できたわけではありませんが。那智の滝の付近は、間違いなく重力異常があると確信しています。一度、きちんと測定してみたいですね。 ストーンヘンジは、9年前、当時小学校6年生だった息子と二人で行きました。1994年の10月、ロンドン大学で、ケルトと神道の比較研究について講演した機会に、足を伸ばして、息子と二人だけで、ウェールズ地方やストーンヘンジを訪ね歩いたのです。二人でパブへ入ったりしながら。その頃、わたしは大酒飲みで、アイリッシュウイスキーは大好物でした。特にブラックブッシュ。ストーンサークルの前で法螺貝や石笛を吹き鳴らしましたが、息子が心配そうに見ていたのを懐かしく思い出します。「こんなへんな父親と一緒に来るんじゃなかった」と彼は後悔したかもしれませんが、生涯に一度でいいから、特に子供が若い頃に、父と息子と二人だけで予定のない旅をしたかったのです。ストーンヘンジ行きも、ウェールズ行きも、行き当たりばったりに決めました。もっとも、ロンドンに住むイギリス人の友人がいろいろとアドヴァイスや宿の世話をしてくれましたが。 その時には、すでにストーンヘンジの前にロープは張られていて、幻滅しました。その2ヶ月前に、井村君江先生と一緒に行ったランズエンド(地の果て)やコーンウォール地方のストーンサークルがずっとよかったですね。場の空気が。鞍馬山の奥の院と同じように、観光客が入りすぎると、空気の密度や場の稠密度が粗く希薄になり乱れてくる感じがしますね。たぶん、屋久島や白神山地の森もそんな状態になっているのではないでしょうか。屋久島にはまだ行ったことがありませんが、白神山地に初めて入った日、そこが世界遺産になることが決定したので、よく覚えています。白神の森のブナ林はエロティックな動物のようで、パワフルな野生のエロスに漲っていました。怖いくらいに。 世界が単子論のようにグラデーションになっているとともに、また、ある次元と次元が非連続的で層的な階層秩序になっているのと両面があるように思います。たぶんそのような場の稠密なところでは、不思議な夢を見やすいのではないでしょうか。重力異常なども発生していて、脳にある種の歪みや圧迫が加わり、意識と無意識の加工がされやすい状態になっているのではないかと思います。トランス、恍惚、エクスタシー、脱魂などの変性意識状態に入りやすいのは事実でしょうね。7月6日に、湯河原の天照山神社の白雲の滝に入りました。水量の多さもあって、脳天と身体にすごい圧力の水の負荷がかかりましたが、あれを長時間やっていると必ず何かが起こると思いましたね。場の空気や力は、そこに流れる風や水によっても、またそこにある石や磐や金属や木によっても大きく変わってくるのです。そしてその力や流れは、人工的に加工したり、強化したり、弱体化したりすることができます。征服者が聖地や神殿を破壊するのは、その部族や民族の「霊的潜勢力」を聖地から充電されて励起されるのをとても深く恐れているからです。 ともあれ、そうした霊的潜勢力を持っていると思われるグラストンベリーのトールで「緑のドラゴン」の夢を見たという話はとても面白いですね。わたしも見たかった! その「グリーン・ドラゴン」を。チベットの菩薩で、慈悲の化身である観音菩薩の涙から生れたと言われる「グリーン・ターラ」のタンカはチベットで求めて持っていますが、「グリーン・ドラゴン」はまだ出会ったことがありません。それはわたしの親戚かも。ウェールズは確か昔の国旗にドラゴンが描かれていましたね。 わたしは最近夢の中で「ただいま」「おかえり」という会話を交わし、涙が出るほど懐かしい思いに駆られました。ただそれだけ。 ところで、中沢新一さんの新著『神の発明』や霊と物質との関係をめぐる科学からのアプローチについて。最近、医学の勉強をしているので、その辺のことはよく考えます。科学は基本的に物質の運動のメカニズムを探り、その運動の量を計測することによって成り立っているのですが、医学もまったく同じ基礎の上に立脚して、身体のメカニズムと物質の運動量を測定し、かつ調整していきます。それが治療行為です。医学を学べば学ぶほど、このメカニズム還元主義のシンプルさと「野蛮さ」に感嘆し、ため息をつきます。「へえっー、ほーっ、ううーっ、はああ」と。「よくできてるなあ、よくわかるなあ、よくやるなあ」と。そして、近年の工学、生物学、遺伝子工学は、人体改造技術は、サイボーグ人間、キメラ人間(ハイブリッド人間)、遺伝子改造人間を生み出しつつあります。そしてそれは何がしが、人体の治療と関係してくるのです。医学は人体の実験場なのです。人体改造最前線であるといってもいいと思います。臓器移植や人工臓器取り付けを含め。 先週の岡山大学大学院の授業でノックアウトマウスの写真を見ました。それはある特定の遺伝子発現を抑えることで、例えば、手足のないネズミや尻尾のないネズミを作っているような写真でした。また例えば、キメラ動物とはまさにスフィンクス型(顔が人間、体はライオン)の動物で、神話や幻想文学の世界が今や実験室で人工的に造られ始めているのです。その進化というのか開発というのか、それは凄まじいものがあります。なぜならそれは産業となり、巨大な利益と権能を生み出すからです。「人体部品ビジネス」は本当に巨大産業として国の研究開発能力と産業の未来を占う前線になるでしょう。基本的にその研究開発の考えの前提になっているのは、人間機械論であり、メカニズム還元主義です。 プリンストン大学教授の分子生物学者のリー・シルバーの予測によれば、将来の人類は、ジーンリッチ(遺伝子改造富裕)階級とナチュラル(遺伝子無改造貧困)階級に二分されるといいます。衝撃的な推論ですが、実現可能性は大いにあります。科学技術的には可なのです。人間は機械で、メカニズム改変やプログラム変換が可能、つまりOSの書き換え、ソフトの入れ換え、器官の交換は可能なのですから。このような医学の思考や現場の状況を知れば知るほど、そのシンプルさと「野蛮さ」に驚嘆してしまうのです。ルドルフ・シュタイナーは人類の悪の展開を予測し、エゴイズム、欲望、暴力、権力、そして優生学的差別が進むだろうと予測していますが、これはほぼ当っていると思います。シュタイナーは、人間が受胎をコントロールし、「優良な人間」と「優良でない人間」が地上に出現してくるとも予言しています。そしてシュタイナーはこうした「新しい優性学」は「アジアの辺縁地帯」に生れると述べています。「アジアの辺縁地帯」とはいったいどこでしょうか。それは日本でしょうか。韓国・北朝鮮か、それとも受胎や出産のコントロールは自由にできるようになるのはないかとも。実際、それは20世紀末にかなりな程度、実現しています。 シュタイナーはまた、「真の医学の本質」は、「人間が諸力を支配し、絶え間なく続いていくみずからの分泌、分解、再生を生じさせることができるように、生命力を整えていく」ことであると述べています。そして、「自然の現象の単なる多彩なものや幻影的なものを越えた瞬間、私たちは霊的なものに出会う」と述べ、さらに真の自然科学とは、「(自然の)幻影の背後にあるあらゆるアーリマナン的なものを探究するとき、つまり幻影の背後に霊的なものを探求するときにのみ、あなたは正しい道に歩むことができるのだ」とそのあり方について、結論的に述べています。 どうやら今日は、もうこれ以上頭が回転しません。眠くて、何度も同じところをぐるぐると渡っている感じです。こうした問題についても、わたしの指標となるのが、宮沢賢治です。彼は農芸化学者として、シャーマンとして、日蓮主義の大乗仏教者として生き抜きました。彼の仕事のすべては未完成で、成熟する前に死んでしまいましたが、そこには多次元的ないのちへの洞察と愛が脈打っています。いつもそうでありたいと思うのです。彼は化学変化と霊的変化の融合をはっきりさせたい人でした。わたしもまたその衣鉢を受け継ぎたいと思います。 2003年7月16日 鎌田東二拝 |