2001/10 満月 - Moonsault Space
![]() 日増しに秋らしさがめだってきましたね。もう紅葉の兆しも見えてきました。季節のめぐりは本当に早いものです。いつもなら、おいしい食べ物の話でもして、このよい季節を心から楽しめるのでしょうが、毎日報道される悲惨なニュースに、やはり心は揺れてしまうのです。 占星術のシンボリズムでは、これは土星と冥王星の180度にかかわっています。土星と冥王星は、占星術の世界では大凶星と言われてきたのですが、しかし、より深くそのシンボリズムを見てゆくと、「抑圧されたものの回帰」を意味すると考えられます。心理占星学の権威、リズ・グリーンはかつて、土星と冥王星のシンボリズムについて、「自分の権力を無意識のうちに使っていたものが、表面的な弱者によって反撃される」というような解釈を述べていたことがあります。これは今の状況においてとても示唆的なメッセージではないでしょうか。 占星術には未来を予言できる能力はありませんし、また、このような事態のなかでは直接的なアクションを起して何かをなす、ということもできません。しかし、ひとつできることがあるとするのなら、星のシンボリズムをつかって、今起こっている状況を政治的、経済的な視点以外から、パースペクテイブを変えて見抜いてゆくことができる、ということだと思います。この緊急事態に何を悠長な、とおっしゃられるかもしれませんが、今回のテロのような事態は、占星術の観点からは個々人の心のなかでも、そしてごく身近な共同体のなかでも起こっていると考えることができます。土星と冥王星は、地上すべてのことを同時的に表現しているからです。もしかしたら僕自身も知らぬ間に誰かを傷つけたり抑圧していたり、ということがあるかもしれません。無意識的であることの恐ろしさを、今深く感じています。 重い話が続いて申し訳ないのですが、土星-冥王星のシンボリズムは、先月のお手紙でも書いたように「死」の問題として、文字通りに迫ってきました。(冥王星は蠍座の支配星です)鎌田先生とのこの書簡交換のきっかけになったのは、朝日カルチャーセンター横浜での対談講座だったわけですが、以前のその連続対談をまとめた本に『アニマの香り』というものがあります。雲母書房から今年8月末に出たものです。宮台真司さん、中沢新一さん、高橋巌さんなど、僕にとって憧れのような先生方と対談させていただいた内容を収めたものなのですが、実は、この本の編集を担当してくださった田村奈津子さんが闘病の末に亡くなられたのです。田村さんにとっては、この本が、最後のお仕事のひとつになりました。編集を担当してくださるということが決定した時点では、僕は田村さんの病気については知りませんでした。また、ご病気のことをうかがったときにも、まさかそんなに状態が悪いとは考えてもいなかったのです。しかし、田村さんは、この本をどうしても仕上げたい、と考えてくださったようで、まるで本の出来上がりをまっていたかのようなタイミングで星界へと戻られたのです。 僕なりに一生懸命に本にはかかわったつもりですが、本当に田村さんの最後の、あえて強い言い方をすれば、まさしく命を懸けたお仕事のパートナーとして応えきることができたかどうか、自分に問うことしかできません。これまでの僕の経験で、本は著者のものであるのと同時に、担当編集の方、そしてデザイナー、写植、すべての人のものでもあると僕は思っていますが、この本ほど、そのことを思い知らされるものはありませんでした。田村さんのおかげで、この本は不思議で静謐な存在感を放つものになったという気がします。そして、そんな本を出していただけた僕は本当に幸福だと思う反面、これからはますます背筋を正して、ものを書いたり、何かを語っていかなければならない、と思うようにもなったのでした。 個人的なことを書き連ねてしまったかもしれません。少しまた星とかたちの話をさせてください。世界がこんなときだからこそ、しばし、夢想にひたる余裕をもつことも大事だと思うからです。近現代の占星術の歴史をぱらぱらとひもといていたのですが、「星と容姿」とかたちということのつながりでは、19世紀イギリスの画家にして占星術家のジョン・ヴァレリーという奇矯な人物のことを思い出しました。占星術の伝統は17世紀後半から18世紀には衰退していたのですが、19世紀に占星術が復興する、初期の人物としてヴァレリーの名を上げることができます。逸話としてはさまざまな予言をすることができたそうで、ジョン・ラスキンなどとも交流があり、幻想小説家のブルワー・リットンに占星術を教授した形跡もある面白い人物です。なにしろ、自分の家が家事で燃えたときにも、それを嘆くよりも、実は自分の予言が正しかった、といってホロスコープの計算に没頭したというのですから、筋金入りの占星術狂です。 このヴァレリーは、面白いことにかのウイリアム・ブレイクとごく親しい交流をもっていました。しかも、その交流は占星術-心霊実験にまで結びつきます。幻視の能力をもっていたブレイクは、過去の人物達、たとえばジョージ・ウォレスだとかエドワード二世だとか、あげくにはピラミッドを最初に建てた人物といった人々の霊姿を見ることができたといっています。そこで、ヴァレリーは、ブレイクに頼んで歴史上の人物を霊視させ、その時刻のホロスコープが、象徴的に、その人物の容姿を現していると考え、星座と人物の容姿とのつながりの間の関係を探って行ったのでした。それが『黄道12星座のフィジオノミー』という本に結実します。残念ながら僕自身はこの本は入手できていないのですが、あの幻視詩人が占星術家といっしょになって心霊学とも占星術ともつかない奇妙な実験を行っていた、という逸話に僕はとても愉しい気持ちにになるのです。 本当にブレイクの目の前に歴史上の人物が現れたかどうかということは、確かめるすべはありません。ただ、ここで僕が面白いと思うのは、そうした歴史上の人物の霊が出現した時刻が、その霊たちとかかわりの深い星周りになっているのだ、という彼らの考えです。ここには直線的な時間の流れとは異なる、ユニークな時間感覚があるような気がするのです。遠い過去が現在となって現れ、現在の星の動きの中に過去が映し出される。現在の星の動きとシンクロしないかぎりは、歴史は浮上しない。そんな重層的でメビウスの輪のような時間感覚で、これは、すべては「生まれた時間」に決定されるという、多くの占星術家の考えとは少し違った発想だということができると思うのです。 これを敷衍すると、たとえば歴史の意味などは、現在のなかで準備ができたときでないとそのかたちをあらわさない、ということになるでしょうか。だとすると、過去の出来事から学ぶためには、僕達は今の意識を研ぎ澄ませつつ、待つことも重要だということになります。あるいは僕達のいまやっていることも、未来のある時点で、将来の人々の準備ができたときに、呼び出されて何かのメッセージを与えることになる、というふうに考えることもできるかもしれません。僕達にできることは小さなことだけです。しかし、その小さなことは、時が来たときに、何か大切なメッセージとして伝わる。そしてそれが少しずつ世界を変えてゆく。たとえ、それが僕達が自我で意識している形とは違っていたとしても…僕はそう信じたいと思っています。 タロットでは『崩壊の塔』のすぐあとに続くのは『希望の星』というカードです。その星が、一日も早く輝くことを祈っています。日増しに寒さが増してきます。お体にはお気をつけください。そうそう、今度のライブ、楽しみにしています。 2001年10月25日鏡リュウジ拝 拝復 鏡リュウジさま 今、アイルランドの歌手メアリー・ブラックの歌を聴きながら、久しぶりで少し落ち着いた気持ちでこのムーンサルトレターの返信を書いています。メアリー・ブラックは哀愁のあるアイリッシュ歌手で、わたしは大好きです。数年前、渋谷のクアトロに彼女の日本公演を見に行ったことがあります。 さて、鏡さん、昨日のコンサートとわたしの文学博士号授与を祝う会にご出席くださり、ほんとうにありがとうございました。心より感謝申し上げます。おかげさまで力に満ちた会になったと思います。あいにくの雨模様で、お客さんが来てくださるか、一抹の不安はありましたが、全体で250人ほどの方が聴きにきてくれて、ほんとうにありがたく思いました。 祝う会の発起人になってくれた、横尾龍彦東京自由大学学長、島薗進さん(東京大学教授・宗教学)、上田紀行さん(東京工業大学助教授・文化人類学)、恩田彰先生(東洋大学名誉教授・心理学)、漫画家の美内すずえさんや柿坂神酒之祐・天河大弁財天社宮司さんや宇治土公貞明・猿田彦神社宮司さんも駆けつけてくださいました。 「神道ソングライター」を名乗って歌い始めてまもなく丸3年が来ます。その激動の3年目の区切りをCD発売とコンサートを行うことでなんとか乗り切ったという感じです。そもそも、わたしは1998年12月12日に埼玉県の浦和教育会館で初めて「神道ソング」を歌ったのでした。作ったばかりの「エクソダス」「探すために生きてきた」「日本人の精神の行方」の3曲を。ギター一本の弾き語りで。 歌い始めたきっかけは、東京賢治の学校の主宰者・鳥山敏子さんの「鎌田さんは歌わなの?」という一言でした。それを聞いて、「そうか、俺は歌っていないのか?」という問いかけから、「歌っていいのか?」という自問に変わり、「いや、歌わねばならないのだ」という決意に変わりました。そして、翌日、大宮の楽器店でエレアコのギターを買い求め、最初の曲「エクソダス」を作りました。そこからわたしの「神道ソングライター」としての第二の人生が始まりました。 その歌は、「ぼくは15歳 旅に出る ぼくの生まれたこの国を 離れて一人 旅に出る ぼくは15歳 旅に出る」という歌詞から始まります。その年の4月まで大宮市の中学校のPTA会長をし15歳の息子を抱えている自分と、15歳の昔の自分自身とを重ね合わせて歌ったのがわたしの歌の始まりです。このタイトルの「エクソダス」とは、いうまでもなく、旧約聖書の「出エジプト記」のギリシャ語タイトルからとったものです。エジプトの奴隷の境遇に身を落としているイスラエル人を、民族の指導者モーゼが人びとをふたたび故郷のカナンの地、「乳と蜜の流れる地」に脱出させ、導いてゆく民族解放の物語が「出エジプト記」、すなわち「エクソダス」です。これを歌のタイトルにした瞬間から、わたし自身の「エクソダス」(流浪)も始まったのかもしれません。「神道ソングライター」としての流浪の旅が。 鏡さん、これは何の星のささやきでしょうか。わたしは子どもの頃から、星のささやきや、星の誘いを強く感じとってきました。星はわたしにいつも力と憧れと崇高と叡智へのあくなき希求を与えてくれました。永遠の香りをわたしは星からかぎとりました。わたしの子どもの頃の疑問は、星と鬼でした。繰り返し見る星(のようなもの)の爆発の夢と、実際に目に見える「鬼」、それが何かがわたしの探究の始まりであり、存在論への関心の芽生えでした。 繰り返し見る星の夢とはこんなものです。すでに何度か著書の中で書いていますが、改めて要点をまとめてみます。――わたしの左手の手のひらの上に米粒のようなものが載っている。それを見つめていると、その米粒大の大きさのものがどんどん膨らんで大きくなり、ピンポン球、テニスボール、ソフトボール、バレーボール、バスケットボール大と、だんだんと変化する。大きくなったので、これは本腰を入れて抱きかかえねばと、両手で抱きかかえようと両足を強く地面に踏ん張ろうとした途端、わたしは空中に放り出されるようにはね飛ばされていった。手のひらの玉が一挙に爆発し、巨大な星のようなものに膨らんでいったからである。わたしはその星となった玉の重圧を一身に受け、漆黒の宇宙空間を宇宙の果てのような遠くまではね飛ばされながら、「わあーっ」と大声を上げて目覚める――いつもきまってこのような夢でした。 このような夢への疑問からわたしの人生の探求は始まっています。なぜ繰り返し同じ夢を見るのか。この米粒はなぜ星のように巨大になったのか。宇宙の果ては本当のところはどうなっているのか、などなど疑問は絶えることはありませんでした。そんなわたしの神道ソングに頻出するキーワードの一つは星です。CDタイトル「この星の光に魅かれて」はその典型ですが、同時にそれは『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンとラストシーンをイメージしたものです。 手のひらの上の米粒は、実は星の子どもだったのでしょうか? 小さな星、星の種子だったのでしょうか? わたしは星の誕生に立ち会っていたのでしょうか? いろんな考えが浮かびました。その意味も答えもいまだによくわかりませんが、星がわたしにあるメッセージを送ってきているという感覚だけは子どもの頃から絶えることがありませんでした。『2001年宇宙の旅』に深く感動したのは、その子どもの頃からの星のささやきをはっきりとよみがえらせてくれたからにほかなりません。「星は何でも知っている」という歌が昔ありましたが、わたしにとって星は山尾三省さんの本のタイトルではありませんが、究極の『聖老人』だったのです。 星の力と叡智、わたしはその力と叡智に憧れました。「星は何でも知っている」、そう信じてきました。占星術もそう考える思考の営みの一つですね。魚座の最後の年の生まれがどのような星の運命を持っているかを、当時の名古屋大学助教授の大沼忠弘さんから知らされた時、深く納得するものがありました。その時、大沼さんから聞かされた「涙の29度」という言葉を今も忘れることができません。それはわたしの人生の基本構造を作っているオリエンテーションやコンステレーションを示していました。 鏡さんもわたしと同じ魚座ですね。しかもあなたは魚座の性格がもっとも典型的に現れている頃の生まれですね。それに対してわたしは、魚座と次の牡羊座とが最後の格闘と緊張を経て、急速に転換しようとする時に生まれました。これではまっすぐな人生を歩めないのは一目瞭然です。わたしの人生は、ジグザグ人生、カミナリ族人生です。魚座の水の性格と牡羊座の火の性格が根本的に対立し、格闘し、しのぎを削っているのですから。「人生不可解なり」、されど「人生明々白々なり」。そんな思いがしきりにします。 わたしがずっと関心を寄せてきたのは、オリオンと月です。オリオンは冬の星座の代表的なものですが、その三つ並びの美しさは喩えようがありません。山尾三省さんも自分の故郷はオリオンだと思っていました。「三省」は「三星」ですからね。夜空に垂直に立っている、その剣か竪琴か矢のような潔い美しさ。オリオン。わたしは何曲か、オリオンの歌を作っています。 それに対して、月への関心は、その満ち欠けと月光の幽玄な美しさによります。月は死と再生を司り、自然界の生命に産卵や月経や妊娠の周期を教えます。潮の満ち引きもすべてこの月と地球の引力によって生まれます。月は影ないし陰の運動性を表わします。わたしは月はとても人間的な星だと思います。それは人間の心のようにとどまることを知らず、刻一刻変化しつづけている星です。もちろん、地球からの見かけ上ですが。 「月は地球を御神体として拝むための天然の拝殿」というのが、わたしの月と地球との関係のとらえかたですが、それは人間が自己反省の心を持っているのと同じように、反省的・反射的な星です。さらに言えば、鏡さん、月はあなたの名前と同じ、人間の全体像、陰と陽のすべてを、また生と死と再生を照らし出す鏡のような存在です。月は永遠の力と光を反射する装置・模造・パラボラアンテナです。それは何ものかへの橋であり、虹であり、媒体であり、霊媒なのです。ですから、憑き物の「ツキ」は月と同じでしょう。ルナティックは狂気をも意味しますね。そもそも、このMoonsault Project自体が何かに憑かれた神がかり的な運動です。それはこの時代と世の中の鏡のようなものです。歌うことはそうした人間の心や身体や魂に直接深く関わっていきます。 鏡さん、わたしにとっても星の話は尽きることがありません。今晩は月がきれいです。今しがた、この月明かりの下で「南無阿弥陀仏マリヤ」「まほろばアーメン」「弁才天讃歌」「永訣の朝」「虹鬼伝説」など10曲ほどを歌いました。この青い光の下では確かに何かが憑いてきそうです。鏡さん、それではまた次にお会いできる日を楽しみにしています。取り急ぎ、返信まで。 2001年10月29日 鎌田東二拝 |