2002/5 満月 - Moonsault Space

拝啓 おばあちゃん子の鎌田東二先生

 もうすぐ満月ですね。次の満月は、占星術家にとっては特別な満月です。今回の満月は月蝕なのですが、その月蝕の時間とほぼ同時に、土星と冥王星が正確に180度の角度を形成します。土星と冥王星は昨年から地球を中心にして真向かいの位置にあって、全部で3度にわたって正確な180度を形成します。この満月は、その最終回と合致します。お手紙では何度も書いてきましたが、昨年のテロ事件などは占星術的なシンボリズムでは土星と冥王星のこのコンビネーションと合致しているのです。信じるかどうかということを別にして、占星術レンズを見てみると、土星と冥王星のコンビネーションは「抑圧されていたものの回帰」を表すものです。これまで見逃されていた「圧倒的な非対称」(これは中沢新一先生が最近の著書『緑の資本論』のなかで使われていた表現です)が、誰の目にもあきらかなかたちで暴発をしたということなのでしょう。

 今回の土星と冥王星のオポジション(180度)の最終回は、どんなかたちで今の問題を鮮明に見せるのか、非常に怖い気もしますが、同時に、さらに隠されていた何かが表に出てくると考えると、どんなことであっても、その問題に直接目を向けなければならないということなのでしょう。この週末からあと数ヶ月、僕たち占星術家は、土星と冥王星のシンボリズムを毎日のニュースのなかに見出してゆくことになるでしょう。

 いや、上なるものは下なるものに等しい、というヘルメス学の格言を信じるのであれば、その働きは個々人の内宇宙のなかでも起こっているはずです。僕の場合には、生まれたときの太陽がこの土星と冥王星の直撃を受けているために、とくにそのシンボリズムを深刻に受けているのかもしれません。先生だからお話しますが、ここ数日、病気とはいわないまでも深いうつの気分に襲われています。それは、先生のおっしゃっている「宇宙的孤独」というものと、もしかしたらどこかで似ているのかもしれません。生身の人間としての体にどこかなじまなくて、底から逃避したいという気持ちと、いや、そのなかでこそ、実現できる何かがあるという義務感のようなものが、自分のなかでせめぎあっているようにも思うのです。

 先生はものすごい勢いで本を出されており、しかもさまざまな活動にまい進しておられますが、それでも「まだ足りない」という声がどこかで聞こえてくるのですね。僕からみると、それはとても信じられないような気がします。先生のお仕事量はほとんど超人的なものですよ。それに比べれば、僕の仕事量なんてほんとにちょびっと。それでも、20歳のころからもうすでに70冊近い本を出してきて、雑誌記事などを大量に書いている僕は、周囲の人には「ほんとに働いている」などといっていただくこともあります。とはいっても、先生のその膨大なお仕事量と比べると、全く微々たるものなのですから、僕の中での「まだ足りない」という欲張りな焦りは、いかばかりか、想像していただけるのではないでしょうか。

 そう、欲張りなものですよね。その「欲張り」なかんじは、このムーンサルト・レターの主題でもある永遠の少年のイメージと結びついているように思います。今日は、永遠の少年について、ユング派の心理学のなかの解釈について本を読み直してみようと思っています。手許にあるのは、いつぞや先生にもご紹介した、元型派の心理学者であるジェイムズ・ヒルマンの『プエル・ペーパーズ』です。プエルというのはラテン語で子供、のこと。本来はプエル数ある元型のひとつであって、それ自体はいいも悪いもないのですが、無意識のうちにこの元型に憑依されてしまうといつまでもオトナになることを拒否する、問題をかかえた心理になるとされています。とくに日本に紹介されている永遠の少年を扱った本としては、ユングの高弟であったフォン・フランツの『永遠の少年』が有名ですが、この本はとりわけ永遠の少年の問題点や病理的な面を強調しているので、永遠の少年といえば、いつまでも現実を拒否するピーターパン症候群の持ち主だと思われていることが多いのです。

 フランツは、永遠の少年は、強大なマザーコンプレックスの圏内から脱出することができず、英雄になりそこねている駄々っ子だということになってしまいます。「おばあちゃん子」と公言してはばからず、「宇宙的孤独」だの「使命感」などといっては足元から遊離しているのではないかと思われかねない理想を掲げて危険を冒している、鎌田先生や僕などはあやうい永遠の少年の病理を抱えていると診断されかねませんね。(笑)しかし、それと対照的に、ジェイムズ・ヒルマンは、永遠の少年のポジテイブな面を強調しています。ヒルマンはいいます。「プエル像は自己(the Self)のスピリチュアルな側面の化身であるとみなすことも出来る。プエルの衝動はスピリットからのメッセージ、ないしはスピリットへの呼びかけともみなすことができるのだ」。セルフとはユング心理学で考える心の中心であり、本来的な自分の一面ですが、それは完全には意識化することも実現することもできません。プエルは、そこからの透明な呼び声として意識されるというわけです。

 この呼び声としてのプエルは、どこかであのグノーシスの『真珠の歌』の鳥を思い起こさせませんか。グノーシスの人たちを、僕が永遠の少年元型と結び付けて考えてしまうのは、まさしく、この世の汚辱をきらうあまりに永遠の高みを目指そうとする彼らのありようがプエルと重なるためだからなのです。プエルにたいしては時の翁、「時間の老人」であるセネックスが対峙します。このセネックスは歴史、重力、現実、秩序、社会構造などのすべてを司っています。占星術では明らかに土星のシンボリズムでありましょう。土星は、ものごとに「かたち」を与えて行こうとします。それは物事に限界を与えてゆくということなのです。こうした「この世的」なものすべては、永遠の少年は侮辱だと感じるのです。だからといってその理想はこの世にはありえないわけですから、ほかに何ができるのかはわからないわけですから。

 今、僕はこのプエルとセネックスの葛藤を肌で感じています。社会的にはずいぶんとキャリアを積んできたわけで、若い人のなかには僕の本によって占星術の世界に足を踏み入れたという人も出てきました。プエルを生きているつもりでも、気がつくとセネックスの役回りをしていて愕然とすることもあります。かといって、さまざまな意味でこの社会の中でのいかにもセネックス的な構造のなかには入らないことを選択したわけですから(大体、物書きで占星術をやっている、などということこそ、プエルの典型的な生き方)、わかりやすいそのモデルはない。けれど、なんとかそのふたつを同時に生かそうという気になってきました。

 以前から若者たちと交流することが多いのですが、彼らの中には非常な自意識というか「有名になりたい」という願望で動いている人たちが目立ちます。僕などからすると、よくわからないというか、やりたいことをやっていて自然に注目が集まる、というのが本当じゃないか、何をするかの方が大事だ、とついお説教してしまいがちなのですが、しかし、耳を澄ませているとそうした「有名になりたい」という一見ばかばかしい言葉の背後に、この世の秩序とは別なところで生きてみたい、というプエルの叫びが聞こえてきます。ここでしっかりと叱ってやることも大事なのでしょうが、同時に、そんなプエルの存在をないがしろにしないようにすることも大事なのではないかという気がしてきました。甘やかしているだけ、といわれそうな気もしますが、しかし、自分自身のなかで、プエルが強く息づいている僕は、そうすることしかできないのです。

 僕のこれからの課題はプエルとセネックスをなんとか両方生かして行くことだろうと思います。面白いことに、ゼウスの寵愛を受けた美少年ガニュメデス(永遠の少年です)は水瓶座になりましたが、占星術では水瓶座の守護星は土星なのです。もしこれからが「水瓶座の時代」ということであれば、それは世界的なテーマであるかもしれません。高齢化が進む社会と、どんどん子供がでてくる社会との間には、南北とか東西とは異なる、もうひとつの種族闘争が生まれるのではいか、というのはある文明批評家のアイデアですが、このいささかSFめいた考えにも一抹の真理があるのかもしれません。

 月は満ちていっています。日付が変わって今日は日本トランスパーソナル学会の大会です。僕は子供のサバイバルについて何かを話すことになっていますが、大会では今ここで書かせていただいているようなことをおしゃべりすることになるでしょう。僕の話すことがどこかで今の土星と冥王星の180度の意味を翻訳することになるといいのですが。

敬具 2002年5月25日 鏡リュウジ拝


拝復 これまたおばあちゃん子の鏡リュウジ様へ

 鏡さん、日本トランスパーソナル学会のシンポジウムがある忙しい時に、ムーンサルトレターを書いてくださり、ほんとうにありがとうございます。月に一度のこの手紙のやり取りを昨年の7月から始めて、まもなく1年が経とうとしています。月に1回、鏡さんと満月の夜にこうして手紙をやりとりするのがほんとに心おだやかになる静かなひと時で、それはわたしにとってたいへん貴重な聖なるしずけさのひとしずくなのです。この機会を共に持てたことを真実ありがたく思っています。

 少しうつ気味だとのことですが、天体、気象、社会事情、人間関係、これらのことに少しでも敏感な人であれば、どうしようもなくうつ気味になるか、分裂気味になるかして、自分を持て余してしまうでしょう。占星術のことはよく知りませんが、気象状況から判断すると、季節と生命のリズム、サイクル、ヴァイブレーション、全部狂ってきています。ずれて来ています。かなりヤバイ状況ですよ、これは。

 わたしはかなり昔から分裂気味ですが、このところ、自分の分裂が新しい次元に突入するのかもしれないというかすかな予感を抱いています。分裂が次なる創造的な調和に変容されるか、それとも破壊的なさらなる分裂に微塵となるか、それはわかりませんけれど。前者であることを祈りますがね。また、どうなっても運命を受け入れる覚悟だけは日々していますが。

 2001年2月19日に死ぬ、という夢を、2000年1月10日の朝方見ました。その日は、母の75歳の誕生日でした。わたしは母と家族にその朝、「来年の2月19日に死ぬ夢を見た。今までの夢の経験からいって、これは正夢だと思う。たとえその日に僕が死んでも悲しんでくれるな。僕は自分のやるべきことを淡々とやって死んでいく。悲しまなくてもいいよ。これが僕の運命なのだとしたら」と語りました。

 その日から、わたしは死の準備をし、その年、5冊の本をまとめ、ライフワークの『翁童論』4部作も完成させ、言霊論についての博士論文を書き上げて、筑波大学に提出しました。いろいろなことをできるだけ整理し、いつ死んでもいいように自分なりに準備をしました。そして、死ぬと覚悟していた2月19日の前日の2月18日に、その学位論文が審査をパスした連絡を受けとりました。2月19日、会議のために来ていた葉山の国際村で目覚め、朝日を受けてほんのりと頬を染めている富士山を望み見、その夜仕事で沖縄に立ち、御嶽の隣に建っている友人のアトリエで独りその夜を過ごしました。結局、無事にその日を「通過」したわけです。

 この1年間の体験を通して、余分なものが削ぎ落とされてきたように思います。悟りとか覚悟とかは、いつまでたっても確たるものとはなりませんが、しかし、かなり腹は据わった、据わらざるを得なかったと思います。このようなわたしの人生や、生の感覚を客観的に見れば、人は分裂した人生だと思うに違いありません。しかしこれは、紛れもなくわたしの人生であり、わたしの生の感覚なのです。どうしようもなく。かなり滑稽ですがね。また、滑稽なのが救いでもありますが。

 実は、鏡さん、このわたしの人生や生の感覚は、あなたの言う「プエルとセネックス」にまるごとどっぷりと浸されています。わたしにとって、この永遠の少年像であるプエルと時の翁であるセネックスは矛盾するものではなく、同居するものです。あなたはわたしのそんな特性を占星学的に見事に明らかにされましたね。わたしのオポジット(対立と緊張)と運動の占星学的構造を。去年の6月30日、大祓いの日に行った朝日カルチャーセンターでの対談で。

 実はそのことをわたしはかなり早い時期から直感してきました。子どもの頃、物心ついたころから。だからわたしは、この問題については相当な確信犯です。誰になんと言われようと、わたしは永遠の少年であり、時の翁です。そのひとつのバリエーションです。その確信なしに、12年もかけて、いや20年もかけて、『翁童論』4部作など書けるものですか。ヒルマンのどんぐり論はそのわたしの確信をさらに強めてくれたことは以前のムーンサルトレターで書いたとおりです。鏡さんがそのヒルマンの翻訳をしたのも、何か運命的なものがありますね。わたしたちは一種の鏡像関係だと思いますよ、ほんとに。

 カガミリュウジとカマタトウジ。二人とも「カ〇〇〇〇ジ」で、アルファとオメガが同じではありませんか。田口ランディさんに言わせれば、顔も知性も似ているらしいし。多分そうでしょう。似ているということには深い意味と仕組みがあります。あなたはわたしの魂の形を映し出してくれます。わたしはあなたの魂の形を露わにします。鏡さん、あなたが「鏡リュウジ」という名前を持っていることは、みずからその名づけをしたことは、仏教に言う名詮自性ではありませんが、あなたの本質を露わにしています。

 「鏡流時」。あなたは存在の流れる時を映し出します。それが「鏡リュウジ」の占星学的位置です。永遠の少年像は、大人になれない子供なんて、そんなちゃちなものでは絶対にありません。それは大人になることを拒否する未熟な知と身体なのではなく、存在の純粋な位相の模造(モデル)にすぎないのです。それは神に対する天使の位置です。ただそうした純粋知性をその本質とするような存在が肉体を持たざるを得ない悲劇と滑稽はありますがね。いくらでも。しかしながら、その存在なしに運動も成長も変容も起こらないような、形而上学的な点なのです、それは。無限遠点の指標なのです。運動そのものを誘惑するようなマトリックス。まあ、一種の宇宙ステーションかな。

 『2001年宇宙の旅』を17歳の時に見たとき、そのことをはっきりと感知しました。だからこそ、あの映画と木星探査号とスターチャイルドはわたしにとって「運命の童子」になったのです。わたし自身を映し出す「鏡」となったのです。だってぼくたちは、あの宇宙の彼方からやってきたのですからね。それは誰がなんと言っても、どうしようもない「事実」ですよ。それはただし、地上に足を着ける前の出来事でしたが。

 わたしには有名になりたいという欲はありませんが、地上でやるべき「ミッション」を果たして死にたいという燃えるような欲望があります。それこそわたしをかくまで駆り立てる原動力で、その意味では、確かにイエスが言い放ったように、「人はパンのみに生くるにあらず。神の言葉によりて生くるものなり」です。中国思想が言う「天命」も、インド思想が言う「カルマ(業)」も、キリスト教が言う「ミッション」もあると思います。

 鏡さん、わたしはこの鏡さんとのムーンサルトレターのやりとりでは、ほんとうに裃を脱いで、真実の感覚を確かめたいと思って書いてきました。それは人から見れば荒唐無稽な話かもしれませんが、だとしたらわたしたちは、かなり荒唐無稽な夢のような人生を現実の人生として選びとり、また運命的に辿って来たのです。この時代のこの「存在の耐えられない軽さ」の中にも「プエルとセネックス」の種子とミッションが宿っています。その種子とミッションをどのように解し、どのように生きるかはその人それぞれの問題です。わたしはかく解し、かく生きるということを淡々と生き抜くしかありません。

 ところで、中沢新一さんの『緑の資本論』は注目すべき著作ですね。大変重要な問題提起作です。貨幣論と神学と文明論という「三位一体」を、見事に中沢流に解読し、この神と金と生が何処へ行こうとしているのかを問いかけている、中沢新一にしかかけない本だと敬服します。一神教の中に「棘」のように刺さった三位一体的な思考が、贈与論的産出と生命論的的発出の両方を「父と子と聖霊」の名の下に結合しえた時に起こってくる資本主義的な構造を、神学から貨幣論までの一貫した構造論としてとらえた彼の着想と表現力は、とても刺激的で誘惑的、ある意味ではルシファー的な魅力に満ちています。

 この本は、資本主義的な、シュタイナーに言えばルシファー―アーリマン的な知性と欲望を、イスラームの知と経済の深層構造を解読する中から批判し解毒しようとした冒険的な著作だと思います。限りない増殖と贈与に向かうキリスト教―資本主義の最大の祭りがクリスマスだとしたら、その反対に、イスラームのそれはくりかえし一定期間欲望を断つラマダーン(断食)であり、キリスト教的金の資本主義に対してイスラーム的「緑の資本論」という批判的対比など、中沢新一の渾身の深謀遠慮なキリスト教神学―資本主義文明批判が展開されていて読み応えがあり、スリリングでした。25年前彼と出会ったときに感じた運命的なものを改めて感じています。中沢君もまた一人の「プエル―セネックス」だと。

 同時に、彼にはとても「サルタヒコ」的なものを感じます。サルタヒコは中沢君によれば、生命と国家における構造の「跳躍的変化」を誘引する存在です。それって、しかし、中沢新一の鏡像じゃないですか。彼はそうした特性をどうしようもなく自分の中に発見し確認してきたのでしょう。それはきっと彼のミッションなのでしょう。そう思います。それは善悪を超えた宇宙の律動、龍体的知性のジャンプです。

 さて、気象は異常。社会は鬱と分裂。混乱と混迷と混沌に満ちています。でも鏡さん、わたしたちの生はこの中で、この与件の中で試されているのだと思いませんか? 「おまえたちはここをどう通過して来るのか? やって来い!」という何者かの声が聴こえてくるかのようです。わたしはわたしの道を行くしかありません。あなたはあなたの道を行くしかありません。わたしたちは同時代の何らかの大道を共に歩んでいます。同志といえるほど強い絆ではないかもしれませんが、わたしはあなたに同志の鏡像を読み取り、レターの交換という協働作業をとおしてそのことを確認してきました。キーワードはヒルマンの言う「どんぐり」と「プエル―セネックス」と「おばあちゃんっ子」かもしれませんね。

 天文学者の海野和三郎先生は、「日本人の天命は世界の中で老婆心を発揮することである!」という大変面白い問題提起をされています。だとしたら、「老婆心」に育てられたぼくたち「おばあちゃんっ子」の出番と役割も大きいものがあるのじゃないでしょうか。海野先生は東京大学理学部天文学科の教授を務めた77歳になる翁ですが、ほんとうに少年のようです。というより、少年の純粋知性そのものの運動を生きつづけて来られた方だと敬愛の気持ちを抱かずにはいられません。

 この前、海野和三郎先生には、わたしたちが仲間と一緒にやっている東京自由大学の「20世紀の知の遺産――人物篇」の第2回目の講師として「アインシュタイン」について語っていただきました。海野先生にはまた自由大学の顧問も引き受けていただいています。その講座の次回、第3回目の6月15日には、中沢新一さんに「南方熊楠」を語っていいたくことになっているのですよ。宮沢賢治―アインシュタイン―南方熊楠とつづく「20世紀の知の遺産」。ここにどのような鏡像と「流時」を読み解くことができるでしょうか。

 そこに流れている宇宙からの呼び声、感応道交のメッセージ。海野先生はアインシュタインの特性や一流の科学者の条件を、(1)curiosity、(2)empathy、(3)logicの三つとされ、(2)のエンパシイを「感応道交」と訳されました。とても深みのあるいい訳ですね。これが純粋知性の働きです。宮沢賢治もアインシュタインも南方熊楠もそうした純粋知性に衝き動かされて、その人生を生き抜いた人だ思います。わたしたちもそうありたいものです。「プエル―セネックス」、つまり永遠の少年と時の翁はそう生きることを誘っているように思います。わたしには19歳の男の子供がいますが、たとえ子供が大きくなってもわたしのこの特性はまったく変わらないでしょう。生れてこの方それは変わらなかったし、これからも変わるとは思いません。「三つ子の魂百までも」です。鏡さん、ぼくたちは一緒に「百まで」プエル=セネックスを生き抜きましょうよ。おもろい変な爺さんになりませんか。楽しいですよ。そうして、世界におもろい風を吹かせましょう!ではまた! オボワール!

2002年5月25日 鎌田東二拝

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