2002/6 満月 - Moonsault Space
![]() またまた、満月ですね。昨日今日は急に涼しくて、寒いくらいです。うっかりすると風邪などひいてしまいそうですね。先生はお変わりありませんか。ところで、先日、久しぶりにお目にかかってゆっくりとお話できたのは、とても幸せでした。ちょうどこのムーンサルトレターの1周年をしめくくる、というかんじでしたね。これまでレターの交換で扱ってきたテーマ、そう、グノーシスとか永遠の少年、翁の問題などについてあらためてまとめてお話することができたのは、僕にとって考えやイメージをまとめなおすことにつながって、ありがたい機会でありました。 それにしても初めて先生に横浜の朝日カルチャーセンターでの対談講座でお目にかかってから、もう1年たつのかと思うと、本当に時の経つのは早いものだと思います。この1年の間には、世界にも、僕個人にも実にいろいろなことがありましたが、それでも時は過ぎてゆくのだということが実感されます。星の動きのなかに今の自分を映し出すと、本当に今、このときが一瞬しかないのだということを身にしみて感じます。先生の精力的な活動は、きっと、そのことを僕以上に知り抜いていらっしゃるからできることなのでしょうね。 これまでのレターの交換でのテーマは前回の先生のお手紙にも集約されていたように思いますし、そろそろ、別なテーマを考えたほうがよいのでしょうか。今度は女性のイメージの問題でしょうかね。実は昨日、僕はアカデメイアという占いの学校での授業で金星についての講座を行ってきました。金星といっても、天文学的なものではなく、占星術的、いや、それ以上に詩的な神話学としてのヴィーナス、アフロデイーテのイメージです。 金星は、ふつう、占星術のなかでは恋占いに用いる星だとされています。僕もときどき雑誌の占いで書くのですが、金星でみる、あなたの恋愛観だとか恋のチャンス、などなどといったものです。それは占星術にとってとても重要なものではありますが、しかし、それだけではないのです。いや、金星の領域が「単なる」若者のロマンスのなかに矮小化されてしまっていることが、何か現代社会のなかでの欠落感、とりわけ多くの女性が感じている不安や人生の無意味さとつながっているのではないかと感じてきたのです。 このところ、僕は今まで以上に女性たちの切実な悩みを聞くことが多くありました。その多くは「恋愛」のテーマなんですが、しかし、その核心にあるのは、女性がこの社会の中でいかに歳を重ねてゆくべきか、あるいは、どんなふうに自分の価値を認めてゆけるか、という問題なのではないかと思うようになりました。僕の友人で独身でいる連中は、このところ口をそろえてもてるようになったといっています。彼らは30代の半ばであり、社会的な地位も安定してきた仲間です。けしてそれまでもてるということはなかったタイプの人が多い(失礼、M夫、k一!)のですが、急にもてている。 そんな女性たちの恋愛の悩みは、案外わかりやすいところで「もう次にはチャンスがないかもしれない」という焦りだといいます。男と女で温度差があるのは、このあたりです。男も「もう次がないかもしれない」というあせりはあるかもしれませんが、これは女性の比ではない。フェミニストたちの考えに全く同意するところですが、自分を「売る」ための資産としては、経済力やら才能やらルックスやら性的な魅力やらがあるのでしょうが、ごく一般的にいって、男社会のなかでは女性が経済力をもつことは難しい。あるいは男性とコンピートした瞬間にかわいくないといわれてしまう。そのときに、女性が資産として行使していた、たとえば身体の魅力などが低下していくのを彼女たちは身にしみて感じてしまうわけです。 そこで急に「セール」が始まってしまう。売り手と買い手が逆転するという現象が、僕の周囲で一時的に起こっているわけです。こんなふうに男女の関係を擬似経済として語ると叱られそうですが、クールに見つめると、やっぱりそうした面はあると思うのですよね。それは否定できない。ただ、本当に僕が感じているのは、たとえば女性の(そして男性も)自分の魅力(資産、なんていいましたけれど)を、あまりに限定して考えすぎていないか、ということなんです。資産なんて語られてしまうところに、問題がある。金星のイメージが大切なものとして浮上してくるのは、ここのところです。 占星術のなかでは金星は愛と恋の女神だとして語られています。僕たちにはそれがトレンデイ・ドラマのようなものだと映りがちです。しかし、その背後にはより大きな元型的な存在があるのですよね。アフロデイーテの息子だとされるエロスは、ギリシアのひとつの神話では神々に先立って存在していた宇宙的な原理でした。それがいつのまにか、バレンタインカードに描かれるような、甘ったるくてかわいらしく無力な存在に描かれるようになってしまったところに問題があるような気がするのです。 鎌田先生流にいえば、きっとタントリズムのテーマなのだと思うのですが、女性、そして男性が自分の身体性のなかに一種の神聖さを認め、そして、気高い存在として価値を持ち続けられるような、何か決定的な次元がかけているように思います。そこで擬似経済として語れるような部分にばかり目がいってしまって、堂々とした、誇り高いエロスについて語れなくなってしまっているような気がするのです。 昨日の授業では、僕はユング派のコルベットの著書を参考にしながら「聖なる娼婦」のイメージについて語りました。アフロデイーテの神殿のなかにいた、宗教的な儀式として男性に体を開く(そして男性はそこに限りない畏敬の念をもつ)女性たちのイメージです。あるいは、どこかで語弊があるかもしれませんが、全盛期の太夫や遊女たち。(本当はそれすら男性社会のなかの犠牲者たちだという見方もあるでしょうけれど、僕が語っているのは歴史的実在というよりもあくまでもイマジナルな象徴としての女たちのことです)このイメージのなかに、僕の周囲の女性たちや、あるいは男性たちにたいしての一種の救いやヒントがあるように思えてならないのですが。 これについては、そのうち魔女の話や欧米のスピリチュアル・フェミニズムについて語る場所をつくりたいと思っています。男の僕にどこまでそれができるかわかりませんけれども。 それから、女性のイメージとしては、僕が先生にお伺いしたいのは「山姥」の姿です。おばあちゃん子の僕たちにはアクセスしやすい神話存在かもしれませんね。でも、僕は日本の民話などについては全くうといのです。もし、山姥について、面白い話などがあれば聞かせていただけると、あるいは面白い本などを紹介していただけると、僕のなかの「おばあちゃん子」の魂は、きっと喜ぶと思うのですが、いかがでしょうか。とりとめもありませんが、今日はこのあたりにしておきます。では、また。 鏡リュウジ拝 2002年6月23日 夏至を過ぎたときに 鏡リュウジ様 つい先ほど、フジテレビの連続ドラマ『空から降る一億の星』を見終わったところです。木村拓哉と深津絵里が主演しているドラマで、なぜかここ何週間か、このテレビ番組に引き込まれてしまいました。かつて大沢タカオと本上まなみが主演した『アナザーヘブン』以来の熱中ぶりで、月曜日の夜はできるだけ予定を入れないようにしていたほどです。なぜ、このドラマにそれほど惹かれたのか、その理由は自分でもとてもよくわかりました。テレビを見ながら、ときどき、まるで自分自身を精神分析しているような気分に陥りましたから。 このドラマに惹かれたのは、それがわたしが最初に出版した本、『水神伝説』のテーマやトーンと深く強く響き合うものがあったからです。どうも、わたしが好きな物語やイメージは、宇宙、追放、孤独、愛あるいは友愛のようです。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』もそうですが、それは、もっと古く、神話上では、スサノヲノミコトが歩んだ道でもありました。スサノヲの物語は、まさしく宇宙、追放、孤独、愛の探究と歌の表出の旅路でもあります。神代の昔からこうしたテーマが繰り返し語られ、わたし自身も『水神伝説』としてそれを語り、現代のテレビドラマの『アナザーヘブン』や『空から降る一億の星』でもそれが変奏されるのですから、これは物語としてはかなり根深いものがありますね。そこを掘り下げていくことで鏡さんから投げかけられた女性性や山姥の問題に少しずつ迫ってみたいと思います。 生涯でわたしが世に残したかった本は、『水神伝説』ただ一冊だけです。あとの本はすべて成り行きでそうなったり、また出すべき使命感を感じたりしたので出版したのですが、この本を残さなかったら死ぬに死ねないとまで思いつめて出版したのは『水神伝説』だけでした。しかしその本が人には一番理解されなかったようです。内容・形式ともに破綻を孕んでいたからかもしれません。しかしわたしはこの作品が自分の核(ヒルマンの言う「どんぐり」)だったと今も思っています。 そこで語られているのは、カオスとコスモス、神話と詩、哲学と音楽(芸能)、両性具有の夢と双生児の悲劇、兄と妹の近親相姦と物語の発生、神聖なる蛇、神主と審神者、神代と現代の相互侵入、神話と歴史の相即、などなどでした。夢と現実が何層にも交錯し次元転換するような、ハイパーリアルでまったくファンタスティックで不可解な神話的物語をわたしは書き残したかったのです。夢であって現実、神話であり物語であって歴史的事実、そのような相反しつつ相即する、パラドクシカルな反対物の一致の世界を描かずにはいられなかったのです。 わたしが一貫して関心を抱いてきたのは、そのような謎めいた存在の不可思議なパラドックスです。シモーヌ・ヴェーユやヒルデガルトやヤコブ・ベーメに惹かれたのも、彼らが思考し表現しようとしている不可思議な両義性と背理ゆえでした。プエルとセネックスの両極的対立と統合のテーマのように。鏡さんは、今回のお手紙の中でこう書かれましたね。「アフロデイーテの神殿のなかにいた、宗教的な儀式として男性に体を開く(そして男性はそこに限りない畏敬の念をもつ)女性たち」と。まさにわたしはそのような女性性に「限りない畏敬の念」を抱いてきたのでした。そうした「女性たち」とは神道儀式の伝統の中では「神主」、つまり神懸る女性です。その神話的表現は、乳房を露わにし、女陰(ほと)を剥き出しにして踊りを踊った神懸るシャーマン神・アメノウズメノミコトに結晶しています。そのような女性性にわたしは小さい頃から魅惑されてきました。それは自分にはないもの、けれど自分にとても近しく、親しいものでした。喪失ないし離反と出会い(再会)。それを『水神伝説』の中で一つの物語として語ったのでした。 『空から降る一億の星』がドラマとしてどれほど奇想天外で、アンリアルなものであったとしても、わたしにはとてもリアリティがありました。「恋(愛)」とは自分の「魂の片割れ」を求める行為であるとは、プラトンが描いた『饗宴』の中のアリストファネスの恋愛論でしたね。それはなかなか含蓄のある恋愛論でした。むかしむかし、人類の祖先には三種類の祖先がいました。一つは男男で、彼らは太陽の子孫でした。もう一つは女女で、大地の子孫。もう一つは男女で月の子孫でした。彼らはみな、頭が一つ、手足が四本ずつ、胴体が一つで、二人の人間が一つに合体したような神身体を持っていたのでした。そのために、あまりに強力になり、傲慢になりすぎたので、神さまが怒って、彼らの背中をちょん切ったのでした。そこで人間は元来一つであったものが二つに分割され、かつての力を失って、自分の片割れを探すようになったのです。それが恋愛の起源であるとアリストファネスは語るわけです。 この物語には、原初的一が二に分割され、葛藤と思慕をもてあまし、ついにはかつての一に帰還し再統合しようとする衝動が「エロス」の運動として語られています。これはまた、全体性・根源性・起源への回帰衝動であり、こうしたエロティシズムは究極的には脱魂(肉体から魂が自由になって初源の一者に合一する)すなわちプロティノスの言うエクスタシスにまで高められます。それはまた、魂への帰還として不死への衝動でもあります。 『空から降る一億の星』では、自分の妹と初めて愛の合一感を感じとった兄は、事の真相(二人が兄妹であるという隠されていた事実)にまだ気づいていない妹に撃たれて死にますが、その死に行く姿は至福に満ちた喜びと悲しみの相反する統合を表しているかのようでした。そして、実の兄の手を握り、育ての兄(明石やさんま)に向かって「お兄ちゃん、ごめんね」とつぶやいてピストル自殺した妹も、静謐の湖の中に憩うのです。それは死んで永遠の愛を獲得する『トリスタンとイゾルテ』の愛にも似て、死と不死の反対物の一致をもくろむ神秘的な跳躍であり、死の崖っ淵から不死の海に向かってダイビングする宇宙飛行だったと言ってよいでしょう。 こんなことを書くと、「おいおい、おまえは、ただのドラマを深読みしすぎ、神秘化しすぎているよ」という声が聴こえてきそうです。ですが、『水神伝説』を書かざるをえなかったわたしとしては、ここに愛せない者の愛の深遠を探り当てようとする衝動を直感したのです。「おれは、愛とか何とかよくわからないけど、おまえを愛していたよ」と生れて初めて愛の告白をして死んでゆく兄。むかし、山崎ハコが歌った「兄妹心中」という歌がありましたが、こんな暗い悲惨なテーマがゴールデンタイムの人気ドラマとして放映されるなんて、何か、終末的な感じがするくらい、不思議な面白い現象ですね。脚本を書いた北川悦史子は時代の空気と感覚を敏感に先取りする人だと思いました。 このテレビ番組の真のテーマは、記憶とノスタルジーだと思いますが、考えすぎでしょうか。わたしたちの記憶はどこから来るのか? わたしたちのノスタルジー(郷愁)はどこから湧き起こってくるのか? プラトンはそれをイデア界ととらえ、その世界の記憶を想起(アナムネーシス)することが真理を認識することだと考えました。精神分析もその記憶の構成と構造を明らかにする方法ですね。ノーマン・ブラウンは『エロスとタナトス』(秋山さと子訳、竹内書店、1970年)の中で、「精神分析学は、神秘主義の伝統の後継者」と述べていますが、フロイトの中にカバラ神秘主義を見てとることはそれほどとっぴなことではありませんし、ユングに至っては、錬金術やらグノーシス主義やら交霊術やら、もう神秘主義大全と言った方がいいかもしれません。 そのノーマン・ブラウンはまた、「ベーメはフロイトと同様に、死を単なる無としてではなく、(堕落した人間の間では)生命との弁証法的矛盾であり、また(神の完全性の中では)生命との弁証法的融合であるものに向かう積極的な力として理解している」と述べています。エロスとタナトスとの関係は、微妙でかつ強靭でパラドックスと飛躍に満ちています。それこそが、人間存在の矛盾といえるかもしれません。 ところで、『アナザーヘブン』も過去の記憶と未来の記憶とノスタルジーが物語の縦糸となって、不可思議な次元錯綜を起こし、神懸り現象を生起させるのでした。本上まなみが演じたヒロインは、どこからか別の星からやってきたシャーマン的な女性でした。彼女はそのかつての星の滅亡と同様の破滅がこの地球に起こることを回避する役目を負っているのでした。不良刑事である大沢タカオがこの女性と恋愛関係に陥り、敵からの攻撃を防ごうとするのですが、次から次へと事件が起こり、二人の愛の成就は常に脅かされます。なぜなら、二人の愛の成就こそが敵の最も恐れるところであり、敵方にとってのカタストロフィーだったからです。それを妨害するために、愛の破壊を工作したわけです。 わたしにとって、不思議なことは、このような「愛」なるものがこの世に存在することです。そして、「いのち」をかけてまでもそのような「愛」を実現しようとすることです。なぜ、このような「愛」がこの世界には存在するのでしょうか? そして、神殿娼婦への「異限りない畏敬の念」がなぜ心のうちから湧いてくるのでしょうか? そのような感情の出所はいったいどこなのでしょう?ベーメならば、それを宇宙の創世、天体の生成と結びつけたでしょう。彼は愛は甘さと苦さあるいは辛さのせめぎあう運動の中から立ち現れると言うことでしょう。ベーメにおいては、独自の感覚論(身体論)と宇宙論が照応的(コレスポンダンス的)関係を結んでいます。 さて、甘いも酸いも辛いもすべてをよく心得た山姥は女性の長老とも、「妹の力」(柳田國男)を宿した老女ともいえますが、それは乳房と女陰を開示して神懸りになったアメノウズメの末裔にほかなりません。足柄山の金時(金太郎)を育てた山姥は、天孫降臨を導き、太陽神の子孫のニニギノミコトをこの地上に降臨させたアメノウズメの霊統を引く者なのです。 その身体を開いたシャーマン的女性神に対する底知れぬ関心と畏怖畏敬の念は、わたしに物語の力を与える源泉でもあります。神道ソングの親分であり、日本の歌の濫觴でもあるスサノノノミコトとともに。山姥もスサノヲもともに、性=聖と想像力のイヴォケーター(喚起者)なのです。そして、スサノヲは金太郎の先祖です。次の満月にも、このエロティックな老婆と金太郎の話を続けることにしましょうか。それまで、ごきげんよう。 2002年6月24日 鎌田東二拝 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