2001/09 満月 - Moonsault Space

拝啓 鎌田東二様

 世界はこんなに緊張していても、月と太陽はいつもと同じように巡るものなのですね。中秋の名月の時期が迫ってきました。せめて、月への平和の祈りを捧げたいと思っています。そして、暴力が暴力を生む、このカルマの輪を断ち切るための、ささやかな動きの末尾にでも、参加できればと思っています。もっとも、何が一番いい方法なのか、僕にはまったくわからないのですけれど。

 前回のお手紙で、山尾三省さんが他界されたことを知りました。僕自身は、世代的なこともあるせいか、恥ずかしながら山尾さんの作品の熱心な読者だったとはいえません。しかし、静かな熱のこもった、鎌田先生の追悼の文章を読ませていただいて、改めて山尾氏の本を開いてみました。『屋久島のウパニシャッド』(筑摩書房1995年)。「いつでもどこでも、常に絶対的に大切なのは平和であり、戦争ではないという、戦後民主主義から学んだ常識に私達のひとりひとりが立ち戻り、血迷っている合衆国と日本政府を戒めなくてはならないと思う」。今しばらく地上にとどまるであろう僕たちは、この言葉を胸の奥の深くにとどめて大切にしておかなければならないと、強く思っています。

 それにしても、僕たちに大切なことを教えてくれた人々が次々に月の向こうへと渡っていかれることが、最近とみに多くなったと感じるのは僕一人でしょうか。僕にとっては、昨年、英国占星術協会の元会長であられたチャールズ・ハーヴェイ氏が他界されたのが大きなショックでした。ハーヴェイ氏の本は邦訳されていませんから、日本では、英語で占星術の専門書を読んでいるごくわずかな人たちにしか知られていないと思うのですが、僕にとってはまぎれもなくメンター(師)の一人でした。今よりももっと英語もおぼつかなかった、19歳の僕が初めてイギリスに出かけ、英国占星術協会の大会に出席したおり、東洋からきた頼りない若者にきさくに声をかけ、読んでおくべき本や勉強のためのヒントをいろいろ教えてくださったのが、ハーヴェイ氏だったのです。この往復書簡でもしばしば名前が出てくる心理学者、ジェイムズ・ヒルマンの存在を始めて僕に教えてくださったのも、ハーヴェイ氏でした。氏は占星術のみならず哲学や心理学にも造詣が深く、間違いなく一人の在野の知識人だったのですが、それ以上に、本当にイギリスのジェントルマンを体現したような人物で、このくちさがない占星術の世界で、誰一人として陰口をたたくことのない、本当に穏やかで強い方でした。そのたたずまいからだけでも、多くのことを学ばせていただいたと思います。

 ほかにも、僕にいろいろなことを教えてくださった方がどんどん月の向こうへと旅立たれているのですが、そうした方から受け取ったものを、僕がちゃんと生きているのか、そしてまたそれをほかの方に受け渡しているのだろうかと思うと、頼りなく感じてしまうのが現実です。しかし、それでも、少しでも、と背筋をときどきは伸ばすことだけでも試みなければ、と思うこのごろなのです。鎌田先生の前回のお手紙から、そんなことも感じました。

 くしくも、死の問題が浮上してきたのは、今月のハロウインの季節とシンクロしているような気もします。『トリック・オア・トリート』のあのハロウインです。太陽が死とセックスの星座である蠍座を運行するさなか、ハロウインの季節が訪れます。ハロウインは万霊節としてキリスト教化されていますが、かつてはケルトの新年の祭りだったといわれています。サオインの祭り。このときには死者達の魂があの世へと移り、また逆にあの世がこの世界に接近して死者たちや、妖精たちがこの世界へと訪れるときだとされているわけです。

 現代の魔女たちも、そのサオインの祭りを大切にしています。アメリカの現代の代表的な魔女、スターホークが書いた儀式では、こんな祈祷文が唱えられます。「今宵、諸界を隔てる帳は薄くなる。年は死に新しい年が始まる。収穫は終わり田畑は眠りにつく。・・・生と死の門は開かれ、太陽の子が孕まれる。」(拙訳『聖魔女術』国書刊行会)

 これは、古代から伝わる呪文ではありません。カルフォルニア大学出身の現代の女性が復興し創り出した賛歌です。前回のお手紙でおっしゃられていた、アニミズム的な感覚の復興は世界レベルで行われているわけでした。アニミズム的な感覚では、おそらく死者たちの存在もとても大切なものになると思います。アニミズムを『物活論』などと訳すと大切なものを見落とすような気がするのです。個別性を保持するかどうかはともかく、この世界を離れた存在、あるいは形態をとらぬものですらも、魂のプレゼンスを感じさせることができる、というのが、僕の考えるアニミズムです。現代の魂論(サイコロジー)は、心理学(サイコロジー)であるとするならば、ひとつ、抜け落ちているのは死者たちの魂へのまなざしではないだろうかと思うのです。もちろん、喪や対象喪失のことはさかんに語られます。しかし、それはあくまでも生者の心の適応に関心がおかれています。そうではなく、古い文化ではどこでも行われてきたように、死者たちにたいしてのケア、セラピー(奉仕)という視点があってもよいのではないでしょうか。また、親子の関係だけではなく、老人や死者たちと子供との関係が生み出す、魂の動きへの配慮のようなものは、考えられないのでしょうか。たしかに、扱いにくいことだとは思いますけれど。

 今回の手紙は、少し支離滅裂になっています。いまだ世界を包む緊張のなかに自分がきちんと定位できないこともあるのかもしれません。再び、世界の平和を祈念して、今日はこのあたりにしたいと思います。

2001年9月29日鏡リュウジ拝

追伸
お送りいただいたすだち、おいしくいただきました。秋刀魚の塩焼きにすだちを少し絞ると見違えるように味が映えますね。ありがとうございました。  


鏡リュウジ様

 今年の中秋の名月は、心から死者を悼む供養月となりそうです。ムーンサルト・レターと称して、この往復書簡を満月の夜に交換してまだ3回目だというのに世界がいっぺんにきな臭い事態をむかえてしましました。なんの準備もなくいのちを奪われ、死の世界に赴かなければならなくなった6000人を超える人びとの無念と戸惑いと怒りと嘆きを鎮めるどのような方法があるというのでしょうか。死者への供養という言葉すら力なく地に落ちてしまいそうな満月の夜です。

 とはいえ、月をじっと見つめていると、心が静まります。「かぐや姫」がなぜ月に帰っていくのかわかるような気がします。月は魂の故郷。いつからそのような直観が生まれたのでしょうか。いつも同じまんまるい太陽と違って、日々とどまることなく満ち欠けする月は、ほんとうに人間の写し絵のような星ですね。

 25年ほど前に、わたしは舞踏をしている友人のために「心月舞」という台本を書いたことがあります。月と地球と太陽との関係を舞踏で表わしたものです。月は人間の悲劇と喜びを象徴します。なぜなら、そこに死と再生があるからです。欠けてゆくものは死の象徴です。そしてその反対に、満ちてゆくものは生あるいは再生の象徴です。それゆえにまたそれは、悲しみと喜びのフーガを奏でます。

 17歳の時に初めて見たスタンリー・キュブリックの『2001年宇宙の旅』は、月の地平線から地球と太陽が昇ってくる光景から始まりましたね。このアングルこそが21世紀の地球意識のまなざしだとずっと思ってきました。月に関連して、去年、わたしは横笛曲「心月」を作りました。その曲を毎朝神棚に向かって吹きました。吹くと、なぜか心が鎮まりました。以下、思い出づるままに、「心月」を詠み込んだ短歌三首を歌ってみます。

こころ月欠けたる空に満ちわたれ魂運び往くしらとりととも

行く先を知らぬ黄泉路の迷い道おのが心月のあかりたよりに

たままぎのわざもむなしくそらあおぐわが心月のこえおらびつつ

 空は不安げに雲を運んでいます。魂を運ぶ白鳥はもはや死者の行く先を知りません。21世紀最初の中秋の名月は、行く先を知らぬ死者の声で沸き立っているかのようです。「2001年宇宙の旅」は墓碑銘を刻みに月のモノリスに向かうのでしょうか。

 実際、許しがたい、認めがたい暴挙が起こったのです。ニューヨークの貿易センタービルはまるでモノリスのように聳えていました。ワールド・トレード・センター・ビル。人類史の記念すべきモニュメント。資本主義の牙城とも、自由主義経済の交易という祭儀が執り行われる祭場ともいえるシンボルタワー。

 それは、アメリカの繁栄のシンボルでした。そのツイン・ビルがみるみるうちに炎上し、崩落したのです。そのビルから何人もの人が墜落してきました。それはどのようなSF映画ですらも、描くことができないような光景でした。ツインビルは、ニューヨーカーにとっては、マンハッタン島に光り輝くもうひとつの自由の女神像だったといえるかもしれません。その中で何万人もの人が働いていました。そこにハイジャックされた旅客機が追突し、自爆テロリズムによって崩落したのです。一瞬のうちに、何千人ものいのちを奪ったそのテロリズムをどのようにも認めることはできません。

 しかし、鏡さんが山尾三省さんの『屋久島のウパニシャッド』の中の、「いつでもどこでも、常に絶対的に大切なのは平和であり、戦争ではないという、戦後民主主義から学んだ常識に私達のひとりひとりが立ち戻り、血迷っている合衆国と日本政府を戒めなくてはならないと思う」という言葉を引用しているように、その惨劇までにいたる原因がありました。いったいこれまで世界の富と権力の配分はどのような原理と正義と秩序によってなされてきたのでしょうか。自由主義市場経済と民主主義政治と警察および司法のコントロールによってでしょうか。

 それは建前としてはそうでしょう。自由・平等・友愛という近代三原則をもっとも高く掲げた国アメリカは、実際にはいろいろな矛盾や問題を抱えてきたとしても、近代社会の優等生を任じてきたといえるでしょう。しかしそのアメリカは、インディアンを大量に虐殺し、黒人を奴隷として使役し、植民地支配を拡大し、アングロサクソンとプロテスタント・キリスト教をもっとも優位に見る差別思想を内蔵しつつ繁栄を続けてきたのです。そのアメリカ合衆国と、その同盟国というよりも属国と言った方が正確かもしれない日本の物質的繁栄は、科学技術と経済力と軍事力の三位一体によって世界に君臨し、それによって世界市場の影の部分を拡大しつづけてきたといえるでしょう。つまるところ、産油国や資源を持つ開発途上国を支援すると称しつつ食い荒らしてきたといえるのではないでしょうか。そのことは、食い荒らされたと感じている国の側から見れば明白になります。

 テロリズムを許すことも、認めることもできません。しかし、アメリカの「正義」というものがどのように強引で、傍若無人で、威圧的で、権力的に振舞ってきたかもきちんとバランスシートにかけて冷静に見つめる必要があるのではないでしょうか。「高貴な鷹」作戦とか、「無限の正義」作戦という命名の仕方に、アメリカの奢りを感じます。そして、ブッシュ大統領が「ゴッド・ブレス・アメリカ」と呪文のように唱えるたびに、わたしは息苦しくなり、反感を覚えます。「ゴッド」は「アメリカ」以外の国や土地を「ブレス」することはないのか。もしその言葉が、アメリカの栄光と祝福にのみ収斂されてゆくアメリカ中心主義やアメリカ優位観を主張しているならば、わたしはその意識と態度を批判します。アメリカよ、奢るなかれと。神は地球上のあらゆる地域を祝福されるのではないのかと。約束の地、選ばれた地はアメリカだけではないのだと。生命が誕生したこの星の全部がその意味では「約束の地」なのだと。

 おのれだけが「善」で「正義」で、それに歯向かうものはすべて「悪」であり「暴虐無法」であると決めつけるところに、どのような「善」と「正義」があるのでしょうか。そこでは「正義」を支えるものは、力です。有無を言わさぬ力です。その力は、経済力と軍事力に支えられた政治権力、すなわちポリティカル・パワーです。

 プラトンは主著『国家』の中で、「正義」を支えるものは人間の理性であり、その理性は霊魂に支えられ、その霊魂は霊界で生前の行いについての賞罰を受け、輪廻転生すると主張しています。「正義」を支える根源的かつ客観的な原理が輪廻転生というのは、突飛で荒唐無稽なようですが、考えさせられる問題提起だとわたしは感じてきました。つまり、「正義」は魂の世界との「正しい義理(理路)」を抜きにしては成り立たないのだ、という問題提起です。「正義」を「正しい義理」に導くためには、政治権力でも宗教でもなく、哲学と倫理的実践が必要です。

 アメリカ合衆国は、テロリズムに対する報復(制裁)攻撃をするようですが、強引に力でねじ伏せるのではなく、その原因を究明する国際委員会を国連が組織し、国際法廷がこの国際テロを裁くべきだと思います。アメリカの「正義」もアラブの「大義」も、ブッシュが言う「十字軍」もビン・ラディンやタリバンが言う「聖戦」も、ともに天秤にかけ、公正なバランスシートに載せなければなりません。それを見届ける冷静な理性と「2001年宇宙の旅」的な月からのまなざしが必要ではないでしょうか。それこそがわれらが「ムーンサルト・プロジェクト」のまなざしです。

 今は、神無月の1日の午前二時、まさに丑三つ時、冷たい雨がそぼ降っています。14日の月もこの雨のために見えません。今宵の満月には月の光の中で、一人一人が心静かに、聖なる静けさを通して、死者を悼み、人類の行く末に希望の光を仰ぎ見ることができますように。

2001年10月1日 鎌田東二拝

PS. 京都のお漬物お送りいただき、ほんとうにありがとうございました。お心遣い、心より感謝申し上げます。

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